妹のマウンド 第4話

第二次侵攻

 あの試合の翌日の月曜日、哲夫は学校の授業にまったく集中できなかった。
昨日の試合が、哲夫の心にあまりにも深く衝撃的に突き刺さってしまっていたからだ。
そして、昨日キャッチャーとして1試合通じて愛の剛速球を受け続けたため左手のひらが腫れあがり
今日になってもまだ引かないジンジンとした痛みのせいもある。

 妹に…女1人に自分たちの試合をかき回されてしまった。
あの強敵・中央ボーイズとの試合でついに勝利を収めたそのはずなのに…全然すっきりしない。
その勝利の原動力となったのが女である妹の愛、
いや原動力どころかあの試合は愛が1人で投打にわたって暴れ回ったことにより得られたもの、
つまり愛がいなければ哲夫率いるライオンズはいつもどおりに負けていたのだ。


 哲夫をはじめライオンズの男たちは、隆一郎の切れのある速球にいつもと変わらず完全に封じられた。
しかし隆一郎は、愛たった1人に攻略された。
第1打席の、相手キャッチャーを失神KOに追い込んだランニングホームラン。
第2打席こそ隆一郎の変化球にタイミングを外されて打ち損じ、内野ゴロに打ち取られたものの
第3打席、力でねじ伏せようとした隆一郎の男としての意地が裏目に出た。
愛の豪快なスイングが、彼の直球を高い軌道で軽く運んでいき、外野の頭を超えて転がっていった。
小学4年生の愛に、隆一郎のストレートは力で打ち砕かれたのだ。
その後の外野手の処理がうまく、中継も素早かったため愛を三塁で食い止めることができ
後に控える頼りない男たちの後続を断ち失点は免れたが…隆一郎のプライドに開けられた穴はあまりに大きかった。

 そしてボーイズの攻撃は、愛の直球一本の前に手さえ出せない。
時折すっぽ抜けてコースを外れ、轟音をあげて体の近くをかすめる愛のストレートを恐れるあまり、
バッターボックスの内側に陣取ることもできなかった。
愛は球速こそすさまじいが野球自体初心者であり、コントロールにはまだまだ難があるのである。
同じ小学生とは思えないストレートがどこに飛んでくるかわからない恐怖にボーイズの男たちは怯えた。
「ビビらせるんじゃなかったの〜!?」
「自分が先にビビってるー!」
「女の子がこわいんだ〜!!」
 ライオンズベンチより愛の同級生女子の野次のほうが効果的にボーイズを揺さぶっていた。
対照的に、すっかり静まり返ってしまったボーイズベンチ。
「お前らそれでも男か!手を出せ、手を!」
 隆一郎だけが、神経質にボーイズの陣地で叫ぶ。
しかし当の隆一郎も表には決して出さなかったが、自分の打順が回ってくることを心の奥底では恐れていた。
自分の心で絶対に認めたくない、年下の女子に対する恐怖感。
その日最後に回ってきた隆一郎の第3打席では、握り方が甘くなった愛のストレートにシュート回転がかかり
空気を切り裂く音を立てながら右打席に立つ隆一郎の胸元へグンと近寄りながら襲い掛かってきた。
(あ、当たる!!)
思わず目をつぶってしまった隆一郎は次の瞬間、バッターボックスから飛び出してしゃがみこんでいる自分に気が付いた。
自分自身、打席から驚くほど遠い位置で。
グラウンド外で見ていたY小学校の女の子たちから、大笑いが響いた。
小学校4年生の女子の球に、腰の抜けた情けない姿を晒してしまった隆一郎。
真っ赤になって俯きながら打席に入りなおした彼に平常心が残っているはずもなく、その後簡単に三振を取られてしまった。

 誰も手が出せない愛は合計3人に対し四球を出しただけでボーイズをパーフェクトに抑えこみ、
隆一郎も浮き足立ちながらライオンズ男子陣の稚拙な打撃に助けられ失点は1点のみで済む。
結局愛も隆一郎も打席は3回ずつしか回らず、そのまま1-0で試合終了。
中央ボーイズは、あろうことか完全に格下の南町ライオンズに破れてしまったのだ。
終了後主審を挟んでの挨拶の際、隆一郎は泣いていた。
さぞ屈辱だっただろう。楽勝確実の相手のはずが、新しく入った女1人にやられてしまったのだから。
一方、ライオンズ男子一同の表情も晴れなかった。
宿敵を撃破し、あれだけの大口を叩いた相手のキャプテンを泣かしてしまったのだからこれ以上のカタルシスはないはずだが、
その勝利をもたらしたのは自分たちではなく、まだチームメイトとして認めたくない1人の女子の力だったから。
挨拶を終えて解散するとき、無邪気な愛が1人だけ何度も飛び跳ねて大喜びする姿が、
ただ両軍の男たちを包む空気を重くし続けていた…


 そんなショックを引きずりながら迎えた、学校を終えた後の練習。
哲夫たちの通うY小学校グラウンドに集まったライオンズ一同に対し、驚きの発表がもたらされた。
今までライオンズを率いていた林監督の、突然の引退発言だった。
「監督…どういうことなんですか急に!?」
 キャプテンの哲夫は慌てて林に問う。
「私はね…本業のほうでちょっと忙しくなりそうなんだよ。
私は仕事ももちろん、君たちのこともものすごく大事に思っている。
だから中途半端な気持ちで両立するのは、失礼なことだと思ってな。必ずどちらかが、おろそかになってしまうし。
このチームに関しては、私が信頼できる人物に任せることにしてある」
「だっ、誰なんですか?その信頼できる人物って…」
「では紹介しよう。こいつが、新しいライオンズの指揮官だ」
「!!」
「みんな、初めまして。今日から私がライオンズを任されることになったわ。よろしくね」

 哲夫たちは一瞬言葉を失った。
ライオンズの新監督として紹介されたその人物とは、哲夫とほぼ同じぐらいの背丈の、若い女性だった。
ライオンズのユニフォームに身を包み、上半身には青いジャンパーを羽織っている。
「こ、この人は、一体…」
「彼女は私の娘の、瑠美子だ。今は大学でスポーツの、特にトレーニングに関する理論を勉強している」
「その一環として、忙しい父に代わって私が君たちの指導をすることになったのよ」
「で、でも…この人が野球を……」
「あら、女じゃ不満?…一応言っておくけど、私には中学高校と女子野球部で主将を務めてきた経験があるわ。
少なくともあなたたち小学生に不安を持たれるような要素はないから安心していいわ」
「…」
「とまぁ、そういうわけだから。野球はもちろん、練習方法や体作りに関する知識は私よりもこの瑠美子のほうが上だ。
…私は今後あまり顔を出せなくなるが、いつも応援しているからな。それじゃ、がんばってくれ」
 そういい残すと、林前監督は手を降りながらグラウンドを後にしてしまった。

「あ、あの…」
「ごめんね。こういうことはもう少し早く伝えておくべきことだったんだけど、
父の仕事のことはなにぶん急に決まったことだったから…
それから、今日はもう一つ、私たちの新しい仲間を紹介するわね。いいわよ、こっちに来て」
「!!」
「ぁ…あいつは…」
 ライオンズのユニフォームを着用して姿を現したその人影に、哲夫と太郎は、開いた口がふさがらなくなった。

「今日からこの南町ライオンズに入団することになった、牛尾夏美です。よろしくお願いしまぁす。
…ふふっ、下田君、藤田君。今日から同じチームで、がんばろうね」
「お、お前は…どうしてこんなところに…」
「君たちの試合見てる間に、刺激されちゃった。あたしの力、君たちに貸してあげる」
「あ…あぅっ……」

「てっちゃん、あの女と知り合い?」
 哲夫と同じ6年のメンバー、山門康夫が後ろから哲夫のユニフォームを引っ張って尋ねる。
「あぁ、一応、同じクラスでさ…」
「へーそうなの。俺あんまり他のクラスのこと知らないからわからなかったよ…
ていうかさぁ、なんかてっちゃん様子おかしいよ?太郎もどうしたんだよ、顔引きつらせて…」
「い、いや、何でも…」


 夏美は今年の春、哲夫のいるY小学校6年1組に入ってきた転校生だった。
始業式の日に担任に紹介されたとき、クラス中がどよめいた。
165cmの身長はそれまでに最も大きかった太郎の162cmを上回り、150cmの哲夫からは見上げる存在だった。
そして身長以上に彼女を大きく見せたのは、縦の長さに負けない横の広さだった。
決して太っているわけではない。中身のぎっしり詰まった、筋肉太りと言える体型だ。
自己紹介によると転校前の小学校では、ソフトボールに打ち込んでいたらしい。ポジションはキャッチャーだったという。
濃い小麦色に焼けた腕と太腿は、日差しの下での連日の練習によるものらしかった。
大きさでも逞しさでも、それまでクラスNo.1だった太郎を凌駕してしまっていた。

 後日哲夫は、同級生の女子と楽しそうにおしゃべりをする夏美の後ろにこっそりと近寄り、
さりげなく自分と夏美の体のサイズを目視で比較した。
白い短パンから出ている哲夫の脚と、体操服の袖から伸びる夏美の上腕部の太さがほとんど同じ。
そして彼女の太腿は、細身の哲夫の胴回りで最も細い部分とほとんど変わらないことに哲夫は愕然とした。
(な、なんて体つきなんだ…)
 しかも贅肉でたるんで太いのではなく、がっしりと硬そうな筋肉を内包してその上に女の子らしい肉付きを乗せた太さ。
背丈こそ自分の妹の愛にすこし及ばないものの、その頑丈そうな体型は間違いなくこの夏美のほうが上だった。
もし力比べになったとしたら、ものの数分でくしゃくしゃにされて放り捨てられてしまう自分の姿を想像し、
哲夫は背筋を冷たくした。

 そしてある日のこと、事件は起こった。
掃除時間中、夏美と太郎がふざけあっているうちに手四つの力比べに発展、太郎が秒単位で完敗しその場に崩れ落ちてしまった。
やはりこの女の力、半端なものではなかったのだ。
「ふふん、男子なんて所詮こんなものよね。少しぐらい手ごたえのある人っていないのかな」
 力で女に屈服させられ、蔑みの言葉を浴びせられて恥辱にまみれた太郎が悔し紛れに彼女にこんな言葉を放った。
「牛女!」
 もちろんこれは夏美の苗字、牛尾にかけた即興の悪口だった。
しかしそれを耳にした夏美の表情がみるみる険しくなり、座り込んでいた太郎をものすごい勢いで引きずり起こした。
そして太郎がうろたえの表情に変わりきる前に、
 ドムッ!!
 哲夫のウエストとほぼ同サイズの凶暴に太い夏美の太腿が、太郎のみぞおちを突き上げた。
彼らの掃除担当区域である廊下一面に響く重い衝撃音とともに、太郎の決して小さくない体が数cm宙に舞う。
そばで見ていた哲夫の目には、その光景がスローモーションの衝撃映像として流れていた。
 ドサン。
「もう一度、言ってみなさいよ」
 言えるわけがなかった。
夏美の重々しいニーリフトに、太郎は完全に呼吸を停止され悶絶にのた打ち回る。
やっとの思いでよろよろと立ち上がった太郎は、おぼつかない足取りで廊下に面した男子トイレに駆け込み、
「ぐうぇ…げぇえええ――――――――っ!!」
 大便用便器を覗き込んだまま昼の給食全てを嘔吐してしまった。
食べたものどころか、内蔵全てを口から外に出してしまいそうな太郎の地獄の呻きだった。
便所から響くその太郎の悲痛な声を耳に、そして正面の夏美の姿を目にしながら哲夫は恐怖で一歩も動けない。

 ガタガタと震える哲夫を見下ろして、
「お友達の藤田君に言っといてあげてね。
偉そうなことは、せめて勝ってから言ってねって。ふふっ」
 夏美はパチンと上からウインクを送って、教室へと戻っていった。
歯の根がまだ合わないまま、哲夫は我に返って太郎のことを思い出し急いでトイレへと向かう。
「たっ、太郎大丈夫か……うっ!!」
 そのとき哲夫の目に飛び込んできたものは、様式便器の前に正座するように座り込み
顔を便座の中に埋めたまま意識を失っている太郎の姿だった。
便器の中に溜まってまだ流されていない吐瀉物は、全体的に赤みがかっていた。
クラスの男子で一番丈夫な太郎が、一撃でこんな姿に…
あの暴力的な太腿の生み出すパワーを目の当たりにして、哲夫も太郎同様便器の前でへたり込んでしまった。


 その日以来、彼らはこの牛尾夏美に頭が上がらない。
よりにもよって、この恐ろしい怪力牛女がチームメイトとして加わってくるなんて…
哲夫と太郎は、瞬時にして目の上に巨大すぎるたんこぶが発生したような心境を共有していた。
「君たちの試合、見てたよ。昨日の試合も、それからその前のチーム内でやった試合形式の練習もね」
「…」
「君たち、少しは情けないと思わないの?4年生の女の子のボールも、ろくに受けられないなんてさぁ。
2人とも、こんなに手のひら腫らしちゃって」
 ぎゅうっ!
「い、いだだだぁ!!」
 昨日の試合でパンパンにされてしまった哲夫の左手を、夏美はひったくるようにして握り締める。
「下田君、しかも愛ちゃんは君の妹でしょ?2歳年下の妹にポジション取られちゃって、
それでこのざまだもんねぇ。恥ずかしいキャプテンさんですこと」
「い、痛い!離せ、離せよ!」
「でもあたしが来たからには安心していいよ。今日からあたしが正捕手としてチームの柱になってあげる。
ソフトで鍛えたあたしのパワーで引っ張ってってあげるから」
「な、何言ってんだ!」
「そうだ、哲夫の妹が無理やり入ったこともまだ俺たちは認めてないのに…お前はなおさらだぞ!
メンバーとして認めてないような奴に仕切られたくないんだよ!」
 哲夫と太郎は夏美に対し、牛女と言いたくなるところをすんでのところでこらえながら反論する。
周りの男子部員たちもその言葉にうなづく。
女が1人入っただけで随分変な雰囲気になっているところで、これ以上の女子の侵略は認めたくなかった。
野球は男のスポーツで、この聖域は守らなければならないという意識が男子一同にあった。
…もちろん、今日から急にやってきたこの女子大生の監督もできれば受け入れたくなかった。

「あなたが、下田君の妹さん?…近くで見ると、本当おっきいわねぇ。お兄さんと違って」
「えへへ…」
 男たちの必死の反論も、夏美の耳には全然入っていない様子だった。
男子一同、そろってズルッと滑る。
「あたしが見たところ、愛ちゃんにはまだまだ眠ってる力があると思うの。
それを引き出せれば、きっと誰にも負けないすごいピッチャーになれるはずよ。
さぁ愛ちゃん、あたしに球を受けさせて!」
「はいっ!」
 男たちの存在を無視するかのように、キャッチャーミットを片手に早速愛を投球練習に誘う夏美。

「キャプテン」
 新監督・瑠美子が口を開いた。
「は?」
「新人の女の子に、好き勝手に引っ張られてていいの?」
「くっ…」
「不満なのね、女の子が入るのが」
「そ、それはそうですよ。このチームに女子が入ったことなんて一度もないし、大体野球って男の…」
「男女の違いなんて関係ないわ。これからは、実力の時代よ」
「…」
「小学生のうちから、そんなカビの生えた価値観に縛られてるようじゃダメ。
そんなことじゃ、今みたいに女の子たちに足元すくわれちゃうわよ。
あの2人の女の子が気に入らないんだったら、実力で排除してみなさい。
野球の腕で敵わないってわかったら、愛ちゃんも夏美ちゃんもあきらめて出て行くでしょうね。
あなたたちが本当の男だって言うなら、口を動かす前に体で彼女たちを打ち負かすのよ」
「…わ、わかりましたよ!やればいいんでしょ。
おい!みんな練習だ、練習始めるぞ!」
 哲夫は半ばやけになって、女子2人に取り残されたような男たちに檄を飛ばしながら練習を開始した。
何か妙な流れに、哲夫も太郎も唇を噛み締めた。

 パァァァン!!
 パァァァン!!
 夏美のミットから、小気味良い音が響き続ける。
哲夫の投球では、絶対に出せない音だった。
「愛ちゃん、ナイスボール!」
 夏美からの返球を受ける愛もニコニコして、のびのびと、伸びのあるストレートを放り込んでくる。
前の学校でソフトボールチームのまとめ役をしていたというだけあって、相手を乗せる夏美の腕は大したものだった。
近くでそれを見ながら、ミットが大きな音を奏でるたびに思わず目をつぶってしまう哲夫と太郎。
昨日よりさらに、ストレートの威力が上がっているような気がした。
「愛ちゃん、あたしを相手にしてみて、どう?投げやすい?」
「はい!すっごい投げやすいでーす!夏美さんって、おっきくてがっしりしてるし」
「ふふ、あなたはあたしより背が高いのにね…」
「でもほんと安心して投げられると思いまーす!」
 夏美相手だと安心して投げられる…
それは受け取り方によれば太郎や哲夫では安心してキャッチャーを任せられないとも取れる言葉だった。
そこまで考えていない、悪気のない愛の言葉が哲夫と太郎の胸に深く突き刺さった。

「お、おまえそんなに受けて大丈夫なのかよ…」
 いたたまれなさを打ち消すように哲夫が夏美に問いかける。
「何が?」
「手だよ、手!」
 平然と反応する夏美に哲夫は汗を浮かべた。ま、まさか…
「ほら、何ともないでしょ」
 ミットを外して哲夫たちの前にその大きな手のひらを見せつける、夏美。
まったく痛そうなそぶりを見せるわけでもなく、実際手のひらも腫れは見受けられない。
既に数十球は受けているはずなのに…
「君たち、勘違いしてない?ソフトボールって、ただ下から投げるから遅いって思ってるでしょ。
ソフトは野球よりもピッチャーとキャッチャーの間は短いし、球の勢いだって速い人なら君たちとは比べ物にならないんだから。
おまけに、ボールも大きいしね。
そんな中でもまれてきたあたしを、甘く見ないほうがいいよ」
 呆然とする男子2人を悠然と見下ろしてそう言うと、さっさと元の位置に戻って愛の投球練習を再開した。
 パァン!!
 スパァァン!!
 愛の剛球と、それを問題なく受け止め続ける夏美の間を間の抜けた顔で目を左右させる哲夫、
一方の太郎は夏美の返球の姿勢に目を丸くした。
捕球してから愛に投げ返すまでの間、いやこうして練習中ずっと、夏美の足の位置が変わらない。
捕球する姿勢を崩すことなく、そのまま愛にボールを返しているのだ。
一旦姿勢を崩し、地に膝を付いてからでないと哲夫に返球できない自分とは明らかに違う。
上半身の力だけで、愛の手元に正確に投げ返している。
(なんて肩の強さなんだ…女のくせに、何で…なんで……)
 太郎は夏美の、愛を凌ぐほどユニフォームをバチバチに張らせているお尻から太腿のラインの迫力に
ついつい目を奪われながら、その様子に我を忘れていた…


 練習が休みの、ある日。
哲夫は自室の中で探し物をしていた。
「おっかしぃなぁ…どこに行ったんだ?使ったらいつも戻す場所は決まってるはずなのに…」
 哲夫は自分の部屋で、あるものがなくなっていることに気が付いた。
いつも1kgから5kgまで並べて置いてあるダンベルのうち、3kgのものが左右2つともなくなっている。
「まさか、また愛の奴が勝手に…」
「ただいまー」
 そう考えた瞬間、玄関から愛の声が聞こえてきた。

「愛!お前俺のダンベルどこにやっ…ん?」
 階段を駆け下りた哲夫は帰宅してきた妹が汗びっしょりになっているのを不思議に思った。
「はぁっ、はぁっ、疲れたぁ…」
「お、お前どうしたんだ??」
「ランニング、してきたの。夏美さんに、教えてもらった通り。はぁっ…」
 ランニング…そして哲夫は、今まで探していたダンベルが愛の両手に握られているのを発見した。
「やっぱりお前が…愛!また俺の部屋に勝手に入ったな!」
「だってあたし、持ってないもん。ダンベル」
 愛は早くも呼吸を整え終わりつつあった。
「持ってないから俺のを勝手に使っていいなんて誰が言ったんだ!
…それにしてもお前、このダンベル持ったまんま走りに行ったのか?」
「うん。そしたら下半身と腕が同時に鍛えられて効率がいいって、夏美さんが教えてくれたの」
(3kgのダンベルを両手に握った状態で、走るだと…?)
 哲夫が今まで考えたことのないようなトレーニング方法だった。
ただ持ち上げるだけなら簡単だが、持ったまま長い距離を走るなんて…
「…で、お前、どこまで走ってきたんだ?」
「えっと…駅の近くにある、市民なんとかっていう体育館みたいなところまで」
「!!」
 哲夫は心の中で顎を外した。
ここから最寄の駅の近くに建っている、南町市民体育センター。
最寄とはいえその駅とは、哲夫の住むこの町内から7〜8kmは離れている場所にある。
哲夫がもしその近辺の繁華街などに遊びに行くとしたら、もっぱら自転車を利用する距離だ。
それを走って往復してきたというのか…しかも片手に3kgずつの重りを持って。
自分だったら、何も持っていない状態で片道走りきれるかどうか…

「コントロールをつけるには、走り込みして下半身をパワーアップさせなさいって夏美さんと監督さんに言われちゃった。
だからあたし、このランニング毎日やるんだ。お兄ちゃんも、一緒にやろうよ」
 恐ろしいことを言いながら、愛は靴を脱いで家に上がる。
さっき疲れたと口にしていたものの、現時点でそれほどスタミナを消耗しているようには哲夫には見えなかった。
「あ、これ返しとくね。ありがと。はい」
 硬直している哲夫にニコニコしながら愛はダンベルを手渡す。ずっしりと重みが伝わる。
水色のジョギング用ショートパンツを、裾に入ったスリットの部分から真っ二つに引き裂いてしまいそうな逞しい太腿。
そして布地にしわも刻ませない、大きくそれでいて引き締まったヒップが階段を上っていくたびにぷりぷりと左右し
本人の意識しないまま兄の視線と魂を奪っていく。

「あっそれから、これも借りてたからね、お兄ちゃん」
 自室のドアを開けると、愛は階下の哲夫にエキスパンダーを見せた。
数本のスプリングを間に装着し、胸の前で左右に引っ張ることで上半身の力を鍛える器具である。
哲夫はダンベルに気を取られ、自分のエキスパンダーまで持ち出されていることには気が付かなかった。
…しかし何やら様子がおかしい。
哲夫が自室の壁にかけていたときと、装着されているスプリングの本数が違っていたのだ。

「これって、いいトレーニングになるよね〜。気に入っちゃった」
 ガシャァッ、ガシャァッ!
「……っ!!」
 棒立ちだった哲夫はその様子を見上げながら、へなへなと力が抜けてその場に座り込んだ。
哲夫がその器具を使用する際、伸ばすことができるスプリングの本数は精一杯力を込めても3本までだった。
しかし今階段の上にいる愛はその倍、そのエキスパンダーに付けられる最大限の6本を軽々と両腕いっぱいに伸ばしている。
何度も、何度も…

 最近妹とは久しく喧嘩をしていないが、もし今そうなってしまったらどんな目に遭わされるだろう。
いつか学校ですぐ目の前で目撃した、夏美の手による太郎のあの悲惨な姿が脳裏をよぎる。
小学4年生の妹の笑顔の下でびろーんと伸びきっては縮む6本の太いバネを見つめながら、
立ち上がれない哲夫は震える唇で誰にも聞こえない呟きを発する。
「ぁ、愛、もう許して…これ以上、強くならないで……」


つづく





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