柔道難民

 とある高校のグラウンド。
その片隅に、とても場違いな集団がいた。

 ドサッ、ドターン…
 少し控えめな音を立てながら組み手の練習をしている、柔道着姿の男子生徒3人組。
畳ではなく固い土の上で柔道の練習をすることは普通とても考えられないことだ。ケガの恐れもある。
それでも彼らには、ここで練習をしなければならない理由があるのだ。
通常通りグラウンドを練習の場に使用している他の部員たちからの視線が痛く感じて、小さくなりながらも
彼らは組み手を続行する。柔道着を土にまみれさせながら。
だが、そこに…

 ボコーン!!

 部員の1人の頬に突然、遠くから飛んできたボールが直撃!その男子部員は横倒しにひっくり返ってしまった。
「な、なんだ!?」
「おい!しっかりしろ!!」
 かなりの勢いで飛んできた硬質のゴム製ボール。頬にくっきりとその刻印が付いてしまうほどの衝撃で
柔道着姿の男は残りの2人にいくら揺すられても反応がない。息だけがある程度だ。

「キャーッ、ごめんなさーい」
 慌てた様子でその場に駆けてきたのは、背番号入りの黒いポロシャツにチェックのミニスカート、
アンダーに黒いスパッツを着用して網のようなラケットを手にした1人の少女だった。
この姿から、この高校のラクロス部の部員のようだった。
「ちょっと遠くまで飛びすぎちゃって…本当にごめんなさい」
「ごめんなさいで済むか!!いきなりこんなもの当てられたらただのケガどころじゃねえだろ!!」
「周りをよく見て練習しろってんだ!!」
 幅の広い体つきを持つ丸刈りの男2人に怒鳴りつけられて、そのラクロス少女はシュンとしてしまっている。
彼女の顔立ちはまだ幼く、1年生の新入部員であることは誰の目にもわかった。
だが、彼女に対して怒りの声をぶつけている男たちも、内心その少女に対してコンプレックスに似た違和感を覚えていた。
…大きい。
どう贔屓目に見積もっても160cm台前半程度の背丈である柔道部3人組に対し、申し訳なさそうな顔で立つラクロス部の少女は
10cm近く目の高さが違う。彼女がシャキッと背筋を伸ばせばもっと差が付くはず…
確実に、175cmはある。そんな劣等感からか、男たちの声はより熱がこもっているようにも感じられる。
しかし…

「ろくに周りも見てないのはどっちだと思ってるの?」
 縮こまっている少女の後ろから、別の少女の声がしてきた。それに反応して2人の男の目がそちらへと向く。
同じラクロス部のユニフォームを着た女子生徒が、その場に歩いて現れた。
「先輩…」
 一番先に謝りに来た1年生少女が彼女をそう呼んだ。

「その子も別に悪気があって当てたわけじゃないんだし…
大体球技の部活をやってる近くでそんなことしてるのが悪いんじゃないの」
 柔道部の男たちは、後からやってきたその女には見覚えがあった。確か、同じ学年だったはずだ。
何度か学年全体の行事などで見かけたことがある。
その大きさが、彼らにその存在を余計印象強く覚えさせていたのだ。
後輩の女子部員の隣に立つと、さらに5cm近い高さがある。
さらに、まだ新入部員で体のできていない1年生の少女と比べて体が各部位とも逞しく発達している。
厳しい練習のあとが見て取れ、対する小男2人組はなおさら穏やかではなくなってきた。

「お前、こいつにこんな目に遭わせといて謝るどころかこっちが悪いだ!?何を考えて…」
「球技をしてる近くでチョロチョロしてたらボールが飛んできそうなことぐらいわからない?
それでぶつけられて気をつけろだなんて言い出すほうがどうかしてるわ」
 高い場所から目線を投げかけながら先輩と呼ばれた女子部員は彼らを逆に非難してくる。
心配そうな顔で謝りにきた後輩と正反対の対応に、男たちの怒りはさらに加熱。
しかし、怒りと憎しみに言葉がすぐに出てこない彼らに、さらに彼女の追い討ちがかかる。
「大体、ここを柔道部が使っていいって誰が言ったの?
勝手に入り込んでケガして、あたしたちのせいにしようなんてどういう神経してるんだか」
「こ、こいつ……!!」
 彼女の言うことは正論だけに、彼らはさらに言い返す言葉を封じられた。
他の部に何も言わず、屋外で練習を始めた柔道部に非があることは誰の目にも明らかだ。

「俺たちは…」
「知ってるわ。道場を使えなくなったんでしょ」
「!」
「あ、違うか。『使わせてもらえなくなった』のよね。そうでしょ」
「な、なにっ…」
「女子柔道部の部員がだんだん増えてきて、道場のスペースに余裕がなくなってきたってお話よね。
それと比べて弱くて負けっぱなしの君たち男子柔道部は部員がどんどん減ってついにそこにいる3人だけになっちゃって、
団体戦にも出られないようじゃ『部』とも呼べないから出てってちょうだい、って言われたんでしょ」
「くっ…!」
「君たちはそれに反発したけど結局何倍も人数がいる女子部に言い負かされちゃって、すごすご出てっちゃったのよね。
で、代わりに練習する場所を探して体育館に行ったけど、そこでも女子バレー部に『邪魔』って言われて
あっさり引き下がっちゃったらしいね。
バレー部の子たち、笑ってたよ。見下ろしながら少し叱り付けてやったらビクビクして逃げてった、ってさ」
「こ、この……!!」
「なぁに?全部本当の話でしょ?あたし、知ってるんだから。
…で、仕方ないからお外で練習しましょうってことにしたのかもしれないけど、
ここでウロウロされたらあたしたちとしても邪魔なの。どっか行ってくれない?」
「何だと!?そんな言い方されて俺たちが…」
「君たちは物分かりがいいから、頼めばどこにでも消えてくれるんじゃないの?
女子柔道部からも女子バレー部からも、出てってって言われておとなしく行っちゃったわけだし。
だったら、あたしたち女子ラクロス部の言うことも当然ホイホイ聞いてくれるでしょ」

 男子柔道部員2人は彼女の見下ろしてくる視線と物の言い方に、これ以上ないほどの屈辱的なものを感じていた。
言われたことは確かに図星だった。自分たち男子柔道部は没落の一途をたどっており、
ついに今年度には対外試合出場最低限の人数を割り込んだ。
事実上部活動としては認められなくなり、対照的に勢力を伸ばして練習場所の不足した女子柔道部に道場の明け渡しを迫られ
たった3人の反論はまさに多勢に無勢で、圧倒的不利な口喧嘩に負ける形で専用の練習場を追われてしまった。
それでも柔道をあきらめられなかった彼らは代わりの練習場所として体育館の空きスペースを考えた。
固い床の上での乱取りなどに無理があることは承知の上だった。背に腹は代えられない。
だが、そこを使用することにも早速待ったがかかる。それが女子バレー部だった。
女子バレー部キャプテンは彼らより、確実に20cm以上はある高さから見下ろしてきて一言だけ口にした。
「邪魔なんだけど」
 同じ部の少女たちもそれに同調し、彼らを取り囲んで非難した。
「どいてよ。気が散る」
「臭いし」
「ボール当てられて泣き出す前に帰ったら?」
 20名以上の大型女子アスリートたちの迫力に威圧されるままに、男3人は自然に足が外に向かってしまっていた。
そこを去る背中に突き刺さった彼女たちのクスクス笑い、
「だっせー」
「バーカ」
 との小さな罵声の数々は彼らの自尊心の奥深く深くをえぐり、串刺しにしていった…

 そして今日、流されるままにたどり着いた最後に頼る場所、グラウンドの使用が却下されようとしている。
「か・え・っ・て・く・れ・る?」
 目の前に立つラクロス部の長身女子部員は鬱陶しそうに男たちを見下ろしながらわざとゆっくり言ってくる。
だが、柔道部の男たちにとってもこれ以上引き下がるわけにはいかなかった。
ここを失えば本当に練習の場は残されていない。あとは廃部あるのみだ。
それに女子柔道部、バレー部に続いて三度までも女に言われるままおめおめと逃げ帰っては
それこそ柔道部の、男の立場は台無しだ。
もう後はない。今度ばかりは、力づくでも練習場所を勝ち取らなければならない。

「なぁに、その目は。柔道部とバレー部には素直でラクロス部には反抗するって?
なんだか甘く見られちゃってるみたいね…ちょっと傷ついちゃった」
 少し不機嫌そうな顔になり、彼女は腕組みをして前の小男2人を見つめなおした。
この接し方が、男たちの怒りを沸点に到達させた。
故意ではないにしてもボールをぶつけて1人を気絶させ、それを先輩が謝罪するどころか被害者であるこちら側を批判、
さらに自分たちがここまで追いやられてきた経緯をズケズケした物言いでバカにしたように話し、
さらにこの不遜な態度…男たちにとって、もうこれ以上は我慢ならなかった。
「このっ…デカ女が!!」
 ドシャッ!!
「あがっ……」

「!!」
 我慢の限界を超えて片方の男が襲いかかったところまでは、もう片方の男も確かに見た。
だが次の瞬間、グラウンドに引きずり倒されて悲鳴を漏らしているのは男のほうだった。
何が起こったのか、見ていたほうの男にはまだ理解できていない。
「あたしには勝てそうだって踏んだのね。面白いじゃない」
「うぐっ!!」
 うつ伏せに伸ばされた男の背中に女の右足のシューズがどっかりと乗り、重みが掛けられる。
強制的に息を全て吐き出させられたような、男の低く重いうめきが空気を震わせた。
「相手によって態度変えるようなお調子者って、あたし好きじゃないのよねー。
少し教育をしてあげなくちゃいけないかも」
 乗せた右脚の膝の上に肘を乗せ、余計に体重を掛ける女。
男の四肢の暴れようから、凄まじい圧迫が加えられていることがわかる。
「こ、このっ!!やめろ!!」
 見ていたほうの男もたまらず飛び出す。
「あら、2対1?ふぅん、それが男らしさなんだ…」
 二人がかりの男が相手になったというのに妙な落ち着きを持った反応をしてきたことが
なおさら男の怒りに油を注いだ。
(この生意気デカ女…柔道やってる俺たちに何の根拠があってそんな態度に出られるってんだ!
こんなボール遊び程度の部活やってる程度で!!)
 ただ大きいだけの女などさっさと投げ飛ばして黙らせる!そして今度はこいつのほうを下敷きに…
そう思い、一気に懐にもぐりこむ。この男が得意にしている背負い投げ…のつもりだった。

「ほぉら、しっかりしなさい。
小さいのが大きいのを投げ飛ばすのが、柔道なんでしょ?」
 ラクロス部の大女は組み付いてきている柔道部の小男をあえて跳ね除けず、技をかけさせるままにしている。
両手を腰に当てたまま、自分の懐に入って背を向け、投げを決めようとする男を見つめ続けて。
(おかしい…そんなはずが!!)
 何度も投げを試みている男が青ざめていく。
まるでこの地面に根ざした巨木のように、動かない!
片足は男を踏みつけていて不安定なはずなのに…
「いい加減にしてよ。シャツが伸びちゃう」
 背後から女のじれったそうな台詞が降りかかった瞬間、男の体が丸ごと浮き上がった。
「う、うわっ!!」
 道着の襟首、帯を後ろから握り締められ、男は彼女の腕力だけで真上へと抱え上げられていったのだ!
「柔の道はどうしちゃったの?ほらほら…」
 肥満体型で決して軽くはない男を空中に留めながら、言葉でもネチネチと弄ぶ。
彼女の体重にプラスして、リフトされた男の体重までが足の下の男にのしかかっていく。
「ぐあっ!!ぁが、うぐぐ……!!」
 苦痛に満ち満ちて拠り所なくバタつく男の両手が熊手のように土を掘り返している。
「君はまた後よ。じゃあね」
 彼女は頭上の遊び道具に飽きたかのように、腕を振り下ろしながら男を解放した。
 ドズッ!!
 まるで仰向けに落とすボディスラムのように土の地面へと叩きつけられた男は背中を強打し呼吸困難に。
「がっ…ご…!!」
 内臓全体を麻痺させられたような衝撃に涙を滲ませる男。
放されたといっても自由が与えられたわけではない。また、こうして自分が悶え苦しんでいる間に
もう1人の仲間があの女に…自分たちはとんでもない間違いを犯してしまったのではないかと感じ始めた。
柔道部やバレー部の女たちよりも人数、身長がそれほどでもないと思って、
このラクロス部の怪物女に喧嘩を仕掛けてしまったことが。
(ど、どういう鍛え方をしてるんだ…ただの球技じゃないのか…)
まだぼやけている視界に、連れの男があの女の足元から引きずり起こされ
またも投げ飛ばされ地面に潰れる様子が映っている……


「ううっ…一体……」
 それからしばらくして、最初にボールの直撃を受け昏倒した柔道部の男が息を吹き返した。
だが直後に彼の目に飛び込んできたのは、仲間の2人が自分の受けたダメージなど比較にもならないほどに打ちのめされて
肩と腹だけで極めて微弱な呼吸のみをして横たわっている凄惨な光景だった。
凄まじい力で何度も、何度もグラウンドの土に叩きつけられたのだろう、ほとんど脱げそうに乱れきった柔道着もろとも
土の色に染まりきって、ほとんどグラウンドと同化しているような錯覚すら覚えた。
それを真上から見下ろしている、ラクロス部のユニフォーム姿の大女2人。
1人は自信満々の表情で腰に手を当て、もう1人は戸惑い半分の顔をして両手を胸に当てている。
長身少女2人とその足元で声も出せずに喘ぐ2人のチビデブ男。
その対比が2人の男を、運動場の表面に擬態したまま弱り果てている2匹の芋虫にも見せてしまっている。
「こ、これは…まさかお前らが、お前らがやったってのか!?」
「ああ、これ?この人たちがあたしたちラクロス部の練習を妨害するようなことばっかり考えるからって…
ここにいる彩名が1人でやっつけちゃったの」
 1人で男子柔道部2人を圧倒、ズタボロの泥雑巾に変身させながら息一つ乱していない女子ラクロス部員は
そう言いながら隣の1年生の少女の肩をポンと叩いた。
「え、ええっ!?」
 彩名と呼ばれた1年女子は突然の振りにただ驚くしかなかった。
「何だと…俺にボールぶつけるだけに飽き足らず、逆切れして暴れたってのか…!」
 残った男1人が、彩名を強烈に睨みつけてくる。
その怒りに満ちた男と、自分の横でニコニコしている先輩の少女を交互にキョロキョロ見ながら彩名は余計に戸惑う。
「せ、先輩…わ、私は何も…」
「彩名、あたしは練習があるから後はよろしくね。
球拾いは後ですればいいから、そいつ黙らせといてね☆」
「ちょ、ちょっと先輩!私は柔道なんて……」
「大丈夫よ、その2人の戦い見たでしょ。こいつら、びっくりするぐらい弱いから。
彩名もうちの部のトレーニングについてこれるだけの下地はあるんだし、自信持ちなさい」
 先輩の少女は彩名に背を向け、それだけ言い残しながら手を振ってラクロスのコートへスタスタと歩いて戻っていった。

「あわわ、そんなこと言ったって…」
 1人取り残された彩名が振り返ると、憎悪に満ち満ちた表情で柔道着の男が今にも飛びかからんばかり。
「デカいとはいえたった1人の1年の女にやられちまったこいつらも情けねえが……
この学校の女どもはどいつもこいつも俺たちをコケにしやがって…!これ以上ナメられてたまるか!!」
 仲間2人をこの彩名にやられたのだと勘違いした男はついに彼女めがけて突進してきた。
これまで女たちに手も出せず引き下がってきた恥もある。もうこれ以上我慢はできなかった。
「ひぇっ、あの、その…!」
 やったのは自分じゃないんです、許してくださいと言おうとした彩名だが口はパクパクするばかり。
いよいよ丸刈りの男が彩名のポロシャツに掴みかかってきた!

「や、やめてくださいっ!!」
 反射的に彩名は腰を後ろに引きながら、両手を真正面に突き出す。
 ドンッ!!
「ぐぉっ!!」
 それは両手突きの形となり、強烈に胸板を突き飛ばされた男は彩名に尻を向けるようにして仰向けにひっくり返る。
「……え?」
 彩名は目が点になった。
格闘(しかも男と)などという経験がまるでない自分が苦しまぎれに出したただの抵抗のような手押しだけで、
柔道部の男が土埃にまみれながら不恰好に転げるようにダウンしている。
意外な軽さ、手ごたえのなさに逆の意味で戸惑う彩名。

「くっ、くっそおおお!!」
 素早く起き上がり、再び組み付こうとしてくる男。
格闘技の部活に身を置く自分が、たかが球技の部活をしているだけにすぎない1年生の女に吹き飛ばされた屈辱を
必死に打ち消そうとするような大声とともに男はかかってくる。
怒りと恥ずかしさが入り混じり、その顔は今まで以上に紅潮している。
勢いよく今度は彩名のユニフォームの、袖を両方掴んできた。
「キャッ」
 相手の男に聞こえるか聞こえないかの小さな悲鳴を漏らしながら彩名が、格闘技経験の全くない
実に素人らしい単純な返し方で応答した。今度は咄嗟に脚も出して。
 ドダッ!! ズシャァァ……
「ウ、ウソ…」
 目の前から男が消えると、彩名は胸に両手を当てながら小さく驚く。
ラクロス用シューズを履いた足元には湧き上がる土煙とともに、もっと柔道着を泥に汚した男がのたうっている。
自分は少し脚を出しながら、掴んでくる彼の柔道着の袖を持って横に捻っただけの認識しかない。
それなのに…こんな簡単に転がってしまうなんて。
柔道なんかこれまでに人生で一度も体験したことのない、自分の手で。柔道部の男の人が。
(え…私をからかってるとかそういうのじゃ、ないよね…まさかね)

「くそぉぉ女のくせにっ!!」
「えいっ!」
 バッタアアアン!!
「うがっ!!」

「こ、このやろぉおおお!!」
 ズデン!!
「が、はっ…!!」

「なめや…がって……うおおおお!!」
 ベシャアアアッッ!!
「ぎええ!!」

 それから1分ほどの間、こんなやりとりが数回繰り返された。
彩名に向かっていっては、その場しのぎで小手先の対応をするような彼女に捻り捨てられの連続。
これまで柔道に打ち込み続けた自分の技がまるで通用しない…しかも格闘技の覚えなどまるでなさそうな女に!
焦りに、悔しさに、1人残された男はあきらめきれるはずもなく飛びかかって行く。
だがその思いに反して、また彩名へと向かっていくその足取りは確実に重くなっていっている。
男のプライドから来る気力だけではどうしても補えない、底へと近づいていく残り体力。
「はぁ、はぁ、このっ…ぎゃああ!!」
 ほとんど独り相撲ならぬ独り柔道と言える惨めな蟻地獄に落としているのは、
いまだ戦っている実感を抱くこともできていない1年生の女の子、彩名。
自分では格闘技らしい動きなんか全然していないつもりだし、傍から見てもそれは経験者の切れのある動作とは全く非なるもの。
なのに現実として、まるで素人のチビ男に稽古を付けてあげているかのように、
相手の男が繰り返し繰り返し地面に這い蹲っては次第に弱っていく光景がそこにはある。
(ぇ、うそ…この人、弱い……)

 彩名は気付いていなかった。
ラクロス部でまだレギュラーと同じような実戦形式の練習が許されず、雑用の合間に課せられる地道な基礎練習の積み重ねで
自分の肉体にはいざ戦いとなればそんじょそこらの男などまるで問題にしない爆発力とスタミナが培われていることを。
このラクロス部の体力強化メニューが普通と比べて過酷なものなのか、それとも彩名の自覚しない才能のなせる業か。
どちらにしても、今相対している男の属する弱小柔道部では何人集まれば彼女に汗をかかせられるか…というほど。
両者のレベルは、雲泥の差という表現が滑稽なほどにマッチしていた。

「ち…ちくしょおぉぉぉーっっ!!」
 早くも息絶え絶えで、それでも男の意地にかけて突っかかってくる男子柔道部員。
しかし悲しいかな、彩名に繰り返し投げ飛ばされ体力を消耗した男の突進は切れを全く欠いたもので力感も皆無。
おまけに疲れて腕が上がらないのか、かかってくるその体は頭が最も前に来る情けなさ。
柔道にあるまじき、無意味な攻撃だった。
 ガシッ、ズルズルーッ……
「ハァッ、ハァッ、ゼェゼェ……!!」
 この滑る音は組み付いてきた男に押されて彩名が後退していく音ではない。
男の両足がグラウンドの土を上滑りしている音だ。
男が残り少ない力を振り絞って歩を進めても、彩名の足を包むシューズは1mmたりともその位置を離れない。

「あの…変なこと聞きますけど…」
 彩名が遠慮がちに尋ねる。
「…これ、全力なんですか?」

 彩名の心の中には少しずつ余裕が生まれ始めていた。
自分から能動的にやっつけることまでは考えないまでも、もし自分がこの人の攻撃に対して受身のままでいても
やられてしまう、いや、少しでも危険な目に遭う可能性を感じなくなってきたのだ。
なんとなく思いつきで、彩名はこの体勢のまま前進してみることにした。
 ズルッ、ズルズル。
(やだ、軽い…)
 拍子抜けするほど力がいらなかった。
彩名の押してみるパワーの前に、必死に押し込んでいたはずの男の踏ん張りは何の役も果たさない。
足の指の形をした何本ものスリップ痕が虚しくグラウンドをならす。
この現実と、今さっき彩名がつい口にした言葉、『これ、全力なんですか?』が
男の全身を絶望的なまでの危機感が打ちのめし、道着の下を冷たい汗が覆う。
(そ、そんなバカな!!ラクロスしかしてないような女に、何でこんな力が…!!)

「あの〜、失礼とは思うんですけど言わせてもらってもいいですか?」
 思いやり、優しさを感じる彩名のおとなしい口調が、焦燥する男の背中の上から降ってくる。
この柔道部の男をできるだけ傷つけまいと言葉を選んでいる様子が伺え、男はかえって口惜しさを募らせる。
「多分、多分このまま続けても、私に…」
「彩名ーっ!そいつらに、二度とこのへんに近づかないって約束させといてね!」
 彩名が何かを言おうとした矢先、遠くから練習を再開していたさっきの先輩の少女の声が聞こえてきた。
「逆らうようだったら、この先自分から来ようと思う気がなくなるぐらい痛めつけてやってもいいよ!」
 離れた場所からのそんな呼びかけに、先に柔道部の男がぞくりと背筋を凍らせた。
その言葉が適当なハッタリや脅し文句ではないことに、彼は気付き始めていたからだ。
(この1年、まだ大して力を使ってない!
もしさっきの女の言うこと聞いて本気なんか出し始めたら…俺は、俺は……!!)
 彩名に組み付いたまま、男は鳥肌まみれになっていた。
腰を捕まえたままの視点ですぐそこにある、スパッツを張り詰めさせる脚の迫力。
今までその背の高さに伴う脚の長さで目立たなかったものの、その太腿の鍛えられようは
自分たちの脚などただ贅肉で太いだけで比較などできるものではないことを今さらにして思い知った。

 グッ。
「!!」
 背中に妙な感触を覚えた瞬間、男の体は瞬く間に浮遊した。
彩名が両手で男の道着の帯を掴み、真上に持ち上げたのだ!
そしてそのまま、部活の道具や着替えを入れるサブバッグでも扱うように…軽々と担ぎ上げてしまった!
「う、うわあああっ!!」
 情けなくも男は大声でうろたえる。
やはり勘違いなどではなかった。この女…強すぎる!!
宙吊りになったままの男の視界に、もう一度仲間の2人の姿が入ってしまった。
雲泥の差の『泥』を体現したと言える惨め極まりない負け姿を晒す、半死半生の仲間たちが。
実際にはあの2人は彩名の手によるものではないのだが、今唯一生き残っているこの男には
あの先輩少女からそう聞かされている。
今こうして彩名の力を思い知らされている最中の彼にとって、それは全然冗談に思えなかった。
彩名に比べての自分のあまりの無力さ、身の程知らずの度合いを今頃になって痛いほど理解するに至った男は
男のプライドなど道着の下の睾丸よりもさらに小さく醜くすぼまり、ほとんど消えてしまっていた。

「あの…ここで約束してもらってもいいですか?
私たちラクロス部の練習場の近くで、柔道の練習をしないって」
「ひっ、わぁぁ…うう!!」
 普段の自分の股間ぐらいの高さに爪先があるほどリフトアップされた男は気を動転させ、まともに返事ができない。
もはや格闘技の世界に身を置く男が女の前で晒せる姿ではなかった。
「ここで約束してもらわないと私も怒られちゃうし…柔道部の皆さんも私じゃダメだったら先輩がまた相手すると思います。
先輩ってけっこう厳しいから…」
 彩名のその言葉に男は手足のバタバタをピタリと止めた。
(この1年よりもさらに鍛えてるあの大女が相手…!?殺される!!)
「や、約束する!します!!」
「本当ですか?」
「ほんとだ…です!!」
「よかった…ありがとうございます。よいしょ、っと」
 手荒な事態にまで至らずに済んだことに安心したのか、彩名は少し嬉しそうに言うと
持ち上げていた男を優しく下ろし、軟着陸させた。
重い男をゆっくり下ろすことも、相当な力がなくてはできないことだ。
男は完全に牙の抜けきった顔で、四つん這いになったまま彩名の顔を見ることもできない。
勝利を確信した彩名は、こちらを見ている先輩に対して片手で控えめにOKのサインを送ってみせた。
「言ったでしょ、彩名。楽勝だって。
さて、それじゃ練習に戻ってくる前に、そいつにきっちりとどめ刺しといてね。
男なんて、その場を切り抜けるためなら口での適当なウソなんていくらでもつくんだから。
わからせてあげといて、その身に」
「は、はい…」
「そっ、そんな!!」
 男はその言葉に、丸坊主の頭でもわかるほど一瞬にして総毛立ち、ガチガチと音を立てて下顎を震わせ始めた。

「ごめんなさい。先輩もああ言ってるんで…」
 彩名は男に対して申し訳なさそうな顔をしながら、おもむろに男を立たせ道着の襟をグッと掴む。
その言動の意味を理解した男は全身をこわばらせながら慈悲を乞う弱々しい瞳で彩名を見つめる。
恐怖のあまり、言葉は出ない。
「すみません…私がしなかったら多分、先輩がすると思うんです…そしたら多分、ものすごいケガしちゃうと思うし…
私、できるだけ優しくしますから…だから、ごめんなさい!」
 彩名のほうも男に許しを願いながら、意を決して掴んだ襟を引き込みつつ男の懐に素早く身を入れる。
(えっと…先輩とあの人たちがさっきやってた投げ技って、こうだったよね?)
 スパッツとミニスカート越しのヒップに男の腰が乗せられたかと思うと、速く大きな弧を描きながら
男の体は彩名の背中をカタパルトに、豪快に射出された!

 ズゴッッ!!

 …受身も間に合わず、グラウンドへと強烈に着弾した男。
爆風のような土煙が収まったそこには、白目を剥いて蟹のような泡を吹き痙攣している柔道部員の姿が…
いまだ舞う少量の埃とともに立ち上るアンモニア臭。
彼の柔道着の股間は黄色く変色して濡れそぼり、太腿部分にまで広がった染みが脚にべったりと密着していた。
「キャッ!…あ、あの、ほ、本当にごめんなさい!
一応手加減はしたからケガとかはしてないと思いますけど…大丈夫、ですよね?」
 当然返答などできずにただピクピクし続けている男に彩名は慌てながらも深く頭を下げると、
急いでラクロス部の練習へと戻っていった。


 翌日以降、柔道着に身を包んだ彼らの姿は学校中のどこにも見られることはなかったという。


 おわり





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