■21世紀の男女関係(青春編)

第7話 亜沙美の実力

 それから15分後、グラウンドは大騒ぎになっていた。
すでに他の陸上部員も亜沙美が県大会記録を持つほどのスプリンターだと知り、
二人のガチンコ対決を前に、自分たちのトレーニングどころではなくなってきていた。顧問の杉山先生も注目している。
武史が先にスタート地点に入ると、そこにジャージを脱いだ亜沙美が近づいてくる。
はじめてあらわになった亜沙美の長く褐色に焼けた脚は、よく言われるカモシカのように鋭く締まったものだった。
けれども中学1年生の亜沙美の脚線はまだか細く、昨日、兄の部屋で見た真由美の脚のような力強い迫力はなかった。
武史は少し、落ち着いてきた。
「武史センパイ、よろしくお願いしま〜す!」ペコリと頭を下げる亜沙美。
「俺はセンパイじゃないだろ」
「ここの部じゃ、2か月センパイでしょ」
 亜沙美はそういって握手を求めてきた。
握手すると、他の男子から「おまえたち、もうラブラブなんじゃねーの?」とひやかしの声があがった。
可愛い女子と二人で走ることを露骨に羨ましがる2年生もいた。
だがその時、武史は、亜沙美の思わぬ握力に息を呑んでいた。それは女子とは思えないものすごい力だった。
亜沙美はさりげなく自慢の握力を発揮して、まずは武史に精神的揺さぶりをかけたのだ。
だが、亜沙美に挑発されて武史も本気で戦う覚悟ができた。絶対に亜沙美には負けられない。
ヨーイ、スタート!
 部長の山下が号砲を鳴らすと、武史も亜沙美もいいスタートを切った。
800mの勝負だ。武史は最初からとばした。
亜沙美は女子といえども、県大会クラスの実力ならダッシュ力はかなりのものに違いない。競り合ったら負けるかもしれない。
そこで、最初に闘争心を萎えさせようという作戦だった。
二人の差はみるみる開き、最初の300mほどで早くもトラック半周近い差になった。
これだけ離してしまえば、残りの距離での逆転はかなりきつい。
だが亜沙美は半周の差をつけられても、あくまでマイペースで走り、なおも広がっていく差を相変わらず詰める様子がなかった。
武史は不思議に思った。いくら亜沙美が自分より記録が良くても、このへんで詰めなければ、逆転の可能性がなくなってしまう。
そしてこう結論づけた。
おそらく亜沙美の走力なら、半周の差はまだかろうじて逆転の可能性があるが、
一歩間違えれば勝利どころか不様な負けをさらすかもしれない。
ならばそれより、負けてもいいから形になるレースをすることを亜沙美は選んだのだと……。
それに亜沙美は女子だから、男子に負けたって、いくらでも言い訳はできるのだ…。
 半周をリードしながら、武史は、亜沙美のムダのない見事なフォームを感心する余裕すら出てきていた。

 だが、やはり武史は、亜沙美に負けまいと過剰に意識しすぎていた。
前半に飛ばし過ぎたせいで、500を過ぎて、ペースがだんだん落ちてきたのだ。
武史は、自分のいつものペースをちょっと上げただけで、そんなに無理したつもりはなかったのだが、
いま考えれば、あの握力で宣戦布告された瞬間から身体に力が入りすぎていたのか? どんどん足取りが重くなっていく。
武史は直線コースに入ったところでチラリとカーブの向こう側を走る亜沙美を見た。
すると、彼女の方は相変わらず涼しげな表情ながら、長い脚をいかしたストライド走法で少しずつ武史との差を詰めはじめている。
それでも、まだ武史は余裕だった。その直線コースを走っているとき、
二人のレースを注目している周囲のみんながざわめき始めるのを感じとるまでは…。
 ところが、直線からカーブにはいろうとするときには、男子がみんな必死に叫んでいた!
「おい武史、負けるな!」
「武史、逃げろ!」
「がんばれ武史」。
 その理由を知るまでにさして時間はかからなかった。
カーブに入って、ふたたび武史は亜沙美の位置を確認しようとした。が、出来なかった。
 直後、武史に亜沙美の足音が聞こえてきた。亜沙美のひたひたと迫る足音はどんどん大きくなり、武史を精神的に追いつめる。
なんと彼女は武史が半周弱を走る間に、一気に差を詰めてきたのだ。
信じられない。なんという猛ダッシュだ!
そして、「あと、100!」の声が聞こえた瞬間、亜沙美は、軽々と武史を抜き去っていった。
荒い息遣いがほとんど聞こえないばかりか、抜く瞬間に「なんだ武史くん、案外弱いじゃん」という屈辱的な言葉を残して…。
そのとき亜沙美を追いかける武史が見たものは、彼女のパワー走法を裏付ける、信じられないような亜沙美の健脚だった。
黒光りした健脚には、さっきは感じられなかった強烈に太い腓腹筋がくっきりとあらわれ、
はちきれそうに張りつめたふくらはぎが、地面を蹴るたびに太くしなっていた。
 さっき立っていた時にはあまり迫力なく感じられた亜沙美の脚だが、いまは違う。
女子は男子以上に皮下脂肪があるから普段みただけでは分からない。
だが、いままさに見せつけられた亜沙美の脚の筋肉量は明らかに男子部員以上だった。
もはやペースがまったく違った。亜沙美は武史に自分の筋力を見せつけて、ぐんぐん遠ざかっていく。
豆粒のように小さくなった亜沙美がゴールテープを切るのが見えた。
さっきまで彼女を小バカにしていた女子が駆け寄って祝福している姿も見える。逆に男子はみな武史に声援を送ってくれていた。
その声のなかを武史もようやくゴールした。
完敗だった。武史は生まれてはじめて陸上で負けた。それもなんと、可愛い女子に。
 亜沙美の周りは女子が取り囲み、武史の周りは男子が囲んで、ものすごい騒ぎだった。
「武史、クサるな」と部長が励ます。
「そうだよ、しょうがねえよ。あいつの走り、ターミネーターみたいに凄かったぜ」
「あの一気に追い込んだ時の脚、見たかよ。すげえ筋肉だったな」
 そんな男子たちの会話を聞き流しながら、武史は亜沙美を目で追った。
長身の彼女はすぐにみつかった。彼女は女子の輪の中心で、元気よくはしゃいでいた。
武史がへとへとになってグラウンドに座りこみ、それを男子たちがしゃがんで取り囲んでいるのとは対照的な光景だった。

 部活の時間が終わって、部員たちがグラウンドにほぼいなくなると、ようやく亜沙美が武史のところに寄ってきた。
亜沙美はペコリと頭を下げ、「今日はありがとうございました!」と言った。
武史は亜沙美の下半身に思わず目がいく。だがあの健脚は、走っている最中とは別人のようだった。
亜沙美の脚はキュッと絞まってはいるが、立っているだけではふつうの女子の脚にしか見えない。
だが武史の目にはハッキリと、亜沙美がいざというときにだけ見せる、あの太い腓腹筋が焼きつけられていた。
「なによ、エッチね」
 亜沙美は、武史の背中を小突くと、夕べの武史の口調をマネして、
「アニキ〜、女に負けるなんて、ありえないよ〜」とおどけて言って、「ね、その発言、撤回してくれる?」と言った。
「はい、撤回します」
 武史はこういうしかなかった。
「あら、ずいぶん素直なのね! 冗談よ、ゴメンゴメン! でも私たち、いいライバルとして、これからもよろしくね。
さあ一緒に帰りましよ」
 亜沙美は笑って武史をうながした。


 つづく





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