■21世紀の男女関係(青春編)

第30話 新しい段階へ(後編)

 真由美が“ある声”を聞いて、慌ててジムの壁にかかった時計を見ると、もう午後2時を過ぎていた。剛の体験カウンセリングは予定を遥かに超える時間がかかってしまったのだ。
「えっ、ウソ、もうこんな時間なんだ」
 真由美は、麻衣子に悪そうな顔をする。だが、
「いいの、いいの。気にしないで。そんなにお腹空いてなかったし」
と麻衣子は笑っている。
 剛とコンビニでお昼前に待ち合わせして、麻衣子さんには約1時間カウンセリングをしてもらい、それから3人で遅いランチにでも行くつもりで話をしていたのだ。
 今日の麻衣子は、2時半から玲子や美紀のために体幹レッスンをする約束になっていると言っていたが、予定通りなら余裕で間に合うはずだった。だが、麻衣子のランチの時間を奪ってしまったばかりか、なんと!剛がジムにいるうちに玲子たちまで来てしまうとは…。
「それでさ〜、あたしと美紀とで、宗太ちゃんをちょっとからかってあげたわけよ。もうサイコーに面白かったンだから!!!!」と、ジムの廊下に、いつもの玲子の甲高く元気な声が響いて、徐々にマシンルームに近づいて来る。
「キャハハハ! カラオケで宗太ヤっちゃったの? それ見たかった〜。今度、才加もまぜてよ」という才加の声も…。
 もちろん、その声にいちばん動揺しているのは剛だった。
「真由美、あのうるせー声、玲子だろ? なんで今日あいつらが来るんだよ。こんな格好してんのに、どうしてくれる!」
 怒り出すのも無理はない。いま、剛はなんとも可愛らしい蛍光ピンクのウェア姿なのだ。マシンルームはガラス張りで廊下から丸見え。玲子たちに目撃されたら、あとでクラス中のネタにされるのは目に見えている。
「事情はあとでね」
 真由美は手のひらを合わせて、ゴメン!の仕草をすると、すぐさま対策を考えた。
「大丈夫だよ剛。玲子たちはいつもこの部屋の前を通ってまっすぐ一番奥の更衣室に行くから。そこはね、このルームを隔てて、さっき剛が使った更衣室とは反対側なの。だから、今すぐさっきのリフレッシュルームに隠れて!玲子たちが更衣室に入ったら、剛はさっきの更衣室に駆け込めば、ぜんぜん平気。玲子たちに会う心配ないから…」
 リフレッシュルームは廊下にも通じているが、マシンルームのすぐ隣りなので、廊下に出ずとも隠れられるのが好都合だった。
 剛はベンチプレスで汗をかくだけ掻いて喉がカラカラだったが、麻衣子からマシンの記録シートを受け取ると、取る物もとりあえず、真由美のいう通りにリフレッシュルームに逃げ込んだ。
 ここなら窓がないから廊下側から見られる心配はない。そして耳をそばだて、玲子たちが廊下を通り過ぎるのをじっと待った。
 真由美の言うとおり、いったん玲子たちの声は近づいてきたが、そのうち通り過ぎて、奥の更衣室のほうに向かってゆく。彼女たちの声が遠ざかると、剛はホッとしたのか、喉の乾きを思い出して無性に炭酸が飲みたくなった。
玲子たちはいま更衣室に入ったところだから、コーラを一杯飲むぐらいの時間は余裕である。お金を入れて、ボトル型の缶コーラを買い、ちょっと喉をうるおし、ひと息つく。さあ、さっきの更衣室で着替えよう……。

 剛がまさに廊下に出ようとしたその時、リフレッシュルームの扉が向こう側から乱暴に開かれて、剛は思わず、つんのめりそうになった。暴力的な勢いでそのドアを開けたのは、高坂玲子だった。ものの1分もしないうちにもう着替えてきてしまったのだ。
 玲子は目の前に、ピンクのタンクトップにボクサーパンツ姿の男が呆然と突っ立っているのを見て、思わず「キャ〜ッ!」と可愛い悲鳴をあげた。
 だが……その態度もほんの一瞬。それが剛だと気がつくと、廊下に逃げようとする剛を押しとどめ、リフレッシュルームから出させなかった。
「な〜んでアンタがここにいんのよ!ここは女子専用なのよ」
「あ、あの…」
 玲子にいきなり高圧的態度に出られ、言葉が出てこない剛。
 だがすぐ、玲子は剛のあまりの滑稽な姿に思わずプッと吹き出すと、
「か〜わいい〜!!」
と大騒ぎして、後から来た才加に「ほら見て見て、剛の格好〜」と手招きした。
「ウワ〜、剛、可愛すぎ〜!」
「キャハハハ」
 才加も大はしゃぎだ。才加は剛のピンクのパンツを露骨に指差して笑った。つい頭にきた剛が才加の肩を小突くと、反射的に才加は挑みかかるような目つきをした。その瞬間、剛は初めて、才加に身長を抜かれていることに気づいた。えっ? いつの間に? 中3になった時は俺のほうが見下ろしていたのに…。
「な〜に、その格好(笑)? 自分でウェアを用意してこないのが悪いのよ」
 玲子と才加は、剛とは対照的に、黒のタンクトップとレギンスでキメ、スポーティかつ学校で見る以上にセクシーだった。まるで、CS放送のアニメ「キャッツアイ」の主人公たちの戦闘服のようだ。彼女たちは支給されたピンクのウェアでは気分が乗らないと、自分たちで揃いのウェアを買ってきたのだという。
 ふと見ると、玲子と才加に遅れて、やや大人しめの性格の萩原美紀も、揃いの黒のウェア姿でやってきた。美紀はバレー部でもともと背が高いが、気は小さい。それで気の強い玲子にくっついてばかりいた。
 だが今、剛は、美紀と目が合った瞬間に、彼女の目つきがギラリと不敵に輝いたのを見逃さなかった。まるで獲物を見据えるような落ち着いた目つき。前とは美紀の性格が変わったような気がした。
 それを玲子も見逃さなかった。
「ダメだよ美紀。宗太ちゃんと同じこと考えちゃ。ここはカラオケじゃないんだし。それに真由美や麻衣子先生の目だってあるんだから…」
「やだなあ玲子、わかってるわよ。ただ、剛がいつになく可愛いんで、ちょっと妄想しただけ」
 その自信に満ちた口調が、もはや一学期までの美紀とは違う。
「ウフフ、美紀、剛で妄想しないでよ(笑)」
「でもね〜、剛のその可愛い格好じゃ、ちょっと襲いたくなっちゃうかも!」と才加までがニヤニヤ笑う。
 夏休みで解放的な気分になっているせいなのか? 剛には、女子3人が明らかに肉食化しているように見えた。
「バ、バカなこと言うなよ。だいたいお前らに俺が襲えるか!」
「あら、それはこっちのセリフ。こうして見ると、剛って意外と弱そうだし」と玲子はにじり寄って、露出の多い剛の体をまじまじと観察する。
「私、ひとりでも勝てそうな気がするけど…」と美紀までが言うと、リフレッシュルームのなかで3人は剛を取り囲んだ。
 その瞬間、剛ははっきりと気がついた。3人とも、一学期までの彼女たちとはまるで別人の体つきになっていることを! その身長は、美紀以外の二人もいつの間にか169cmの剛を超えており、しかも日焼けしているせいなのか、引き締まった二の腕や、大腿四頭筋から下腿にかけては、レギンスのタイツ越しにうっすらと筋肉の断層すら見えていた。これもジムに通って手にいれたものなのか? 
 剛は三方から見下ろされ、3人の体の迫力に威圧された。
「な、なんだよ」思わず声が震えてしまう。
 3月までは軽くやり過ごしていたクラスメートの女子から、これまでに感じたことのない緊張感を味わわされてしまうとは…。

 そのうち美紀は、一瞬のスキをついて、剛が持っていた記録シートを奪い取りにかかった。剛は抵抗したが、後にいた玲子に両腕を抑えこまれて、あっさり美紀にシートを奪われてしまう。
 剛は奪い返そうとしたが、自分より2cm以上背丈があり、リーチも長い美紀がシートを持った右手を上げると、わずかに届かない。
 そのさまを見て思わず吹き出す才加。
「どれどれ…」
 美紀は剛のマシンの記録に目をやると、面白そうに、玲子や才加にも見せて笑う。
「な〜んだ。剛ってテニス部のくせに、案外、非力じゃん(笑)」
「ホントだ。いまならあたしたちのほうが強いね(笑)」
「はい、ありがと!」
 美紀は拍子抜けしたといった感じで、あっさりとシートを剛に返すと、堂々と腕組みをして「襲ってあげよっか?」と言う。
「う。うるせい。そんなこと言うなら、証拠に今度おまえたちのシートも見せろよ」
「ダ〜メ。見せてあげない」
「だって、あたしたちのマシントレの記録なんて言いふらされたら、男子に逃げられちゃうもん」
「それは困るのよね〜」
「お前たち、わかってねえな。もうクラスの男子は、とっくにお前らのこと怖がって避けてるよ」
「わかってないのは剛のほうよ。あたしたち、3Cの軟弱男子なんて、もはや眼中にないもん。いま狙ってるのは、まだあたしたちのことを良く知らない3Bの小栗くんとか、3Aの向井くんとか他クラスのイケメン。この間、サマーランドのプールで小栗くんに偶然会ったらアイスに誘われてさ。結構、あたしたちのボディに参ってたみたい(笑)」
「ウフフ、ジムに通ってからメリハリボディになってきたのよね〜」
「2学期になったら、超肉食系で一気に攻め落としちゃうつもりよ(笑)」
 確かにいまの玲子、美紀、才加ならば、みんな170cm越えの長身に、剛をオロオロさせるほどの迫力の身体つきだ。学校1、2を争うイケメンの小栗や向井だって十分可能性があるだろう。
「まあ、この間、ちょっとあたしと美紀とで予行演習してみたんだけどね〜」と玲子。
「カラオケでね」
「密室で男子を誘惑するリハーサルしてみたの」
「うん。効果テキメンだったよね」
「フフ、これなら男子は意外と簡単に落とせる、って思っちゃった!」
 魔性のカラダと男勝りの力、さらには学年上位を占める知力を手に入れて、自信満々の玲子や美紀や才加たちに囲まれ、剛は手も脚も出ない。
 3人は剛を言葉攻めしていたが、そのうち飽きると、玲子がスポーツドリンク缶を買い、3人で豪快に回し飲みし始めた。
「でもね、剛には何にもしないから安心しなさい!」
「期待してたんなら悪いけど…」
「期待なんかするかよ!」
 そう言ったが、本音を言うと少しだけがっかりもした。じつは剛は、小学5年の時、片思いだったけど、秘かに美紀に憧れていた。初恋だった。きっかけは体育の時間に80m走を並んで走って美紀に僅差で負けてしまったこと。この時期は成長の早い女子が男子を凌駕することが少なくない。ルックスは好みで背はスラリと高く、運動会のリレーやバレーボール大会で大活躍する美紀は眩しかった。
 だが同じ中学に入って、美紀は勉強やスポーツで伸び悩むと、引っ込み思案のやや暗い性格になった。リーダー格の玲子のあとにくっついている美紀にはあまり魅力を感じなかった。そうして本命の彼女ができないまま、真由美と出会った。いまは剛をどんどんリードする真由美の魅力に夢中だ。
 だがいま、あの憧れていたころの強気の美紀が、突如復活したのだ。勝ち気な美紀は真由美にも劣らぬ魅力があった。「襲ってあげよっか?」と初恋相手の美紀に言われて、実はゾクゾクしていた。
「本音はいま、剛をイジめてみたいけど〜」と美紀。
「イジめてあげたいけど、真由美に怒られるし」
「真由美の彼氏で良かったね」
「ま、剛はいいわよね。何かと真由美に守ってもらえて…」
「そんなことねえよ」と剛は思わず声を荒げた。

 そんな話題の最中に、真由美がリフレッシュルームに入ってきた。真由美はもう普段着に戻り、デニムのミニスカ姿。さっきのトレーニングの時とは別人のようにセクシーに変身していた。その右手には缶ジュースを持っている。
「麻衣子さんが、玲子たちがなかなか来ないって言ってるから、まさかと思ったけど…。結局、剛、見つかっちゃったんだ。だらしないわネ」
 真由美は剛にあきれながら、玲子たちに、剛に体験カウンセリングを受けさせた経緯を説明した。
「なんだ、最初に私たちに言ってくれたらいいのに」と玲子。
「だって……言えば玲子たち、面白がって覗きに来たでしょ、こういうふうに。私は剛がラクにカウンセリングを受けられるようにと思って…」
「ほ〜らね。なんだかんだ言って剛は真由美に守られてる」
「そんなこと思ってんの、お前らだけだろ」と剛。
「だけど、真由美もどうして相手が剛なの? よくわかんないよね」
「ホント!筋肉マニアなのに、剛なんてぜんぜん筋肉ないじゃん!」
「よく男のアスリートのグラビアとか見て、興奮してるくせに〜」
「でも、まあ、身近にアスリートのような筋肉の男子っていないから、しょうがないけどね」
 玲子たちは剛のまえでグサッとくるようなことを平気で話す。剛は真由美が筋肉マニアだとは知らなかった。真由美は剛の前ではそんな話はほとんどしないのに…。だが、女子同士の間では、結構、そういう話で盛り上がってるのかもしれない。すると、
「ウフフ、マニアっていえば、そうだけどね」と真由美が口を開いた。
「あたしの場合はアスリートの母の影響かもしれないけど、グラビアを見て、そういう男の人に憧れるって言うんじゃなくて、自分がそれに近づきたいってほうなの。だから、グラビアとかでカッコいい筋肉見ると、ああなるためには、どこを鍛えればいいのかって考えるのが好きなのよ」
「すご〜い、さすが真由美、考えることが違うわ」
「剛、大丈夫? こんな真由美についていけるの?」
 玲子たちに言われるまでもなく、剛自身、そんな真由美がなぜ自分を大事にしてくれるのかが分からない。だが、当の真由美は、女子たちのツッコミに窮する剛の狼狽するさまをニコニコと楽しそうに見ているだけだ。
「剛、しっかりしなさいよ。俊夫も言ってたよ。剛は真由美という盾があるから、イイ気なもんだよって!」と才加が喝を入れる。
すると今度は真由美が反論した。
「俊夫が何言ってるか知らないけど、私は剛を特別守ってるつもりはないわよ。それは玲子の偏見。そもそも男子と女子が張り合ってるのがおかしいのよ。ここに剛を連れてきたのだって、男子も夏休みにこのジムを使ったらいいと思ったからなの」
「だけど、男子が来たらやりづらいよ」
「あくまで夏休みの間だけよ。9月に正式オープンしたら、ほかのお客さんも入会するから、もちろん男子禁制よ。だけど、夏休みの間だけならいいじゃない」
「まあ、真由美にそう言われたら反対できないけど…真由美は男子に優しいよね」
「1学期の終わりにさ、掃除の時間に女子5人で男子に『今から腕相撲大会やろうよ』って提案した時も、真由美ひとり反対して実現しなかったし…」
「そんなことあったんだ?」剛はまったく知らなかった。
「真由美が『もしやったら、ジムに出入禁止ね』っていうから…。それはヤだもんね」
「『私たちが鍛えてるのは自分のためで、男子に対抗するためじゃないでしょ』とか言われちゃうと、まあ、こっちも何も言えないし……」
 真由美は仲の良い3人に言いたい放題言われてしまい、黙っていた。口では否定したものの、まあ確かに男子を守らなきゃ、という気持ちも心の奥に少しはあるのだ。
玲子も美紀も、才加にしても、ジムに誘ってから真由美の予想以上に体力を伸ばしていた。あのとき腕相撲大会をやって、3人が調子に乗って本気を出していたら、男子を屈辱の海に沈めていたに違いない。真由美はそれを感じたからこそ止めたのだ。
 力で男子を押えつけるようなことは真由美は嫌いだった。フェアじゃない。いままで剛に対してだって、自分から手を出さないようにしてきた。真由美が腕力などを見せつけたのは、剛から仕掛けてきた時だけだった。
 いまは女子だって男子に負けないけれど、それを証明するのはスポーツや勉強の実力でいい、というのが真由美の主義だ。
「まあ、2学期になれば、すぐに水泳大会もあるし、運動会もあるから、そこで私たち3C女子の実力を見せればいいんじゃない?」

 そこまでしゃべると真由美はふと、忘れていたものに気づいたように、手に持った缶ジュースを開け、ゴクゴクとひと息で豪快に飲み干した。
「あ、真由美はもうレベル3なんだ。羨ましいな〜」と玲子。
「AMAZON-PROTEIN LEVEL3」とジュースの缶に大きく印刷されていた。それにしても見たことのないブランドだ。
「それ、初めてみるジュースだけど、旨いの?」
 剛が聞くと、玲子たちが笑った。
「剛ったら、ジュースだって!」
「ジュースじゃなくて、それはプロテイン入りのサプリドリンク。トレーニング後に飲むと、効果的に疲労を回復して新しい筋肉をつきやすくするのよ」
「剛ったら何も知らないのね(笑)」
 レベル3とは5段階のうちの3段階で1から徐々にプロテインの含有量があがっていくのだと玲子が説明してくれた。
「筋肉がついてくると代謝が活発になるから、どんどん栄養の吸収率が良くなるの。それでプロテインも多く入ってるのよ。あたしたちはみんな2なんだけど、真由美は筋肉量が多いから3なの」
「さすが筋肉マニアよね。真由美は着実にいい筋肉がついてきてる感じだし。羨ましいな」
「でも、あたしたちだって、ほぼプログラム通りに来てるじゃない?」
「そうよね。ほんと真由美には感謝してるわ。だって、ここに通うようになってから、体中からパワーがわき上がってくるような気がするの。勉強も凄くはかどるし」
 そんな玲子たちのハシャギぶりを、剛が苦々しい思いで聞いていると、真由美が時計を見て言った。
「そろそろ、麻衣子さんとこに行かないと怒られるよ」
「やばっ、行こっ!」
 そう言うと玲子は、空になったスポーツドリンクのボトル型の缶をバキバキと片手で握りつぶす。アルミ缶だから、まあ、握りつぶすこと自体は簡単だが、たった3回握っただけで、飲み口の細い部分以外を見事にペシャンコにして、空缶入れに投げ込んだ。
 そうして、3人は「じゃあね」「麻衣子さんの体幹レッスンきつそうだなぁ」と言いながら、揃ってリフレッシュルームを出て行った。
「さてと……お腹すいたよね。私たちはなんか食べにいこ!」
 真由美もサプリの入っていた缶を右手でバキバキと握りつぶした。だが、ひと握りで半分につぶしたところであっさりと空缶入れに放った。
 それが剛にはちょっと意外だった。こういう時、ビシッと完全につぶして「玲子より私のほうが上よ」と、さりげなく見せつけるのがいつもの真由美なのに……。怪訝な顔をすると、それを察したように、
「ああ、それスチール缶なの。板にするのは私でも無理だから(笑)」と笑う。
 剛もコーラのボトル缶を持っていたのに気づき、それを空缶入れのなかに捨てた。
 すると、真由美が空缶入れの横の<張り紙>を指さす。そこには「缶はつぶして捨てましょう」の注意書きが…。
 剛はあわてて缶を取り出そうとしたが、先に真由美が取り出し、剛の飲んだボトル缶をひと握りでほぼつぶし、ふた握りで板にして、最後は親指と人差し指で飲み口をつまんで完璧にペシャンコにして、捨て直した。
 そしてニコッと剛に笑う。それこそいつもの真由美の姿だった。

 ふたりは駅前のガストに行くことにした。ジムのビルを降りるときも、トレーニングになるからとエレベーターを拒否して階段を降りていく真由美。剛はあとからついていく。階段を降りきって、目線の高さが逆転すると、真由美がまた大きくなったと思い知らされる。
「真由美、また伸びた?」
「うん、いま174.5かな? 春から2.5cmは伸びたね。剛は?」
「俺はほとんど伸びてない。169.5」
 ふたりの身長差はいつしか5cmに広がっていた。真由美はローヒールのサンダルを履いているので、剛はいま7cmぐらい上から見下ろされていた。
「そっか、普通中3だったら男子の方が伸びるのに不思議ね。玲子も春から2cm、美紀も2cm、才加なんか中3になってから6cmも伸びたんだよ。やっぱりプロテインが効いてるのかなぁ?」
「ああ、あれ。トレーニングのあとにみんな飲むの?」
「そう、いつもあれ飲んで、体づくりに役立ててるのよ」
「俺も飲みたい。さっきひとつくれれば良かったのに」
「それがね、あれは母が依頼してジョーダン博士に特別に開発してもらった<アマゾン・プロテイン>ていうもので、女性専用なの。プロテイン以外にも、コラーゲンとか、ビタミンとか、ホルモン系のサプリとかが入って女性用に調合されているので、男性には向かないの」
「そうなんだ」
 剛はちょっと落胆した。女子3人があれを飲んで剛の身長を追い抜いたのだとしたら、この先もっと引き離されるような気がしたのだ。

 ふたりはガストに入り、剛はイタリアンハンバーグを、真由美はそれを2枚重ねたツインタワーハンバーグを注文した。
 やがて、料理を置きにきたウエイトレスが、いったんツインタワーを剛の前に置きかけたものの、剛に比べて真っ黒に日焼けした真由美の、見るからにスポーツウーマンといった感じを見て躊躇していた。
「あっ、そっちが私です」と真由美がツインタワーを指差す。
 ウエイトレスはやっぱり、といった感じで含み笑いしながら、大きな皿を真由美の前に、小さな皿を剛の前に配膳していった。
「ごめんね、こういう時って恥ずかしい? 少しは私が遠慮したらいいのかもしれないけど…そういうの、性格的にできないんだよね」
「いいよ、別に…」
 そういいながら食事する二人。さすがに剛の倍のウエイトをあげてお腹がすいているのか? 剛がちょっとハンバーグに手をつけた頃、真由美はもう1枚を完食していた。
「で、どうだった? 今日のマシン体験。楽しかったでしょ」
「ちょっと苦しかったけど…」
「(えっ、あれで?)」
と言いかけたが、真由美はすぐに気を遣った。ジムにはじめて行った時に挙げた重量は真由美のほうが重かったけれど、真由美だって慣れるまではいろいろと戸惑った。剛の今の体力からしたら、あの程度なのかもしれない。
「私も最初はちょっと苦労したよ。でもだんだん慣れてくるから(笑)。もし良かったら、来週も遊びにおいでよ。もう玲子たちがいても大丈夫でしょ?」
 そう言われて、剛はどうしたものかと戸惑う。真由美はこれからももっと力をつけていくのだろう。ならば真由美に負けないように自分もジムで鍛えたい。ただ…真由美ひとりならいいのだが、他の女子も一緒のあのジムで、玲子たちにいろいろと言われながらマシンをやるのは、かなりの屈辱が待ち構えていると想像できた。
 それはクラスの男子だってきっと同じだろう。意気揚々とあのジムにやってきても、真由美ひとりならいざ知らず、一学期までとは見違えるような力をつけた玲子や美紀を見て、1回でビビってしまい、2学期に悪影響を及ぼしてしまうのではないか?
 終業式に通知表を渡されたあとの、盛り上がる女子たちと、沈み込んだ男子たちの対照的な光景を見た剛にとって、クラスの男子を誘うことは「あり得ない」と思った。
 目の前の真由美が起こした小さな革命がきっかけとなって始まった3C女子の勢いは、もはや止められないところまで来ている。女子が体力のみならず頭脳面でも男子に追いつき追い抜いていくのが顕著になれば、この流れは自然に他のクラスにも波及していくに違いない。でも、せめて自分が卒業するまでは食い止めたい。
 ならば、いまクラスの男子をあえて萎縮させるようなことは極力避けないと…。2学期になれば、3Cの男子たちも新たな気持ちで元気を取り戻し、女子に挽回できるかもしれない。そのためには少しでも時間稼ぎをしないと。剛はそう考えた。
「剛、なに深刻に考え込んでるのよ?」
「えっ、別に?」
「ウソ、ウソ。いま何か考え事してたよ」と屈託のない真由美。男子の気持ちなんか知る由もないのだろう。
「それでさ、もし良かったら、来週あたり拓哉とか俊夫とか誘って来ない?」
 だが剛は首を横にふった。
「いや、クラスの奴らは誘わない」
「なんで?」
 剛は黙っていた。まさか「男子がますます女子に萎縮しそうだから」なんて言えるわけがないのだ。
 真由美は剛が黙ってしまったのを見て、それ以上、ツッこむのを止めた。
「ふ〜ん。まあ、私はいいけど…」
 そう言ったときにはもう、真由美は出された料理を完全に食べ終わって、ゴクゴクとひと息に水を飲んだ。そして水のおかわりを頼んだ。水を持ってきたのはさっきのウエイトレス。彼女は真由美の皿を片づけながら、剛がまだ食べ終わっていないのを横目でチラっと見てまた苦笑した。

 それから、しばらくの沈黙が流れた。気まずいと思ったのか、沈黙を破ったのは真由美のほうからだった。「剛は、このあと、夏休みはどうしてるの?」
 真由美からそう聞かれて剛はちょっと嬉しい。何せ、今日は2週間ぶりに真由美と会ったのだ。この2週間は真由美の顔ばかり思い出して勉強も手につかなかったのだから…。
 なにか誘ってくれるのかな? 真由美とのデートなら何でも良かった。ただ、ジムじゃないほうがいいけど…。でも、ここは男の自分から誘うべきところかな。
「どうって?」
「どこか家族で旅行するとか?」
「行きたいけど、来年受験だからって、春までお預け。」
「やっぱそうか…」
「どこか遊びに行こうよ。真由美は学年トップになったんだから余裕だろ」
「余裕じゃないよ私だって。それに来週、監視役が帰ってくるし」
「監視役?」
「母よ。ウチの母は超キビしいから、父も妹もビクビクしてるわ。まあ父が今からいちばん緊張してるけど(笑)」
「お父さんが? 留守中の仕事のこととか?」
「仕事のことはどうでもいいの。母は父の周りに優秀なブレーンをいっぱい配置してるし、父の稼ぎには何も期待してないから。むしろ、私たちのことをちゃんと監督してるかどうかね。母は父が、私と亜沙美にやり込められてると思ってるから。だから私たちは父が母にいじめられないためにも、成績面も生活面もちゃんとしてないといけないの」
 改めて聞くまでもなく、やはり松永家の絶対権力者は母親なのだと思い知らされる剛。強い母親の遺伝子を継いで、真由美や亜沙美のような強い娘が生まれてきたのだ。
「それでね、再来週、母が私の遅いバースデイパーティをやってくれるんだけど、剛くんちの家族を招待したいの。来てくれる?」
 剛はもちろん嬉しかった。家族と一緒というのが微妙だが…。
「もちろん行くよ。でも玲子たちも来るんだろ」
「ううん。今回は剛くんの家族とあと母のブレーン数人だけの少人数よ。剛くんや武史くんのことはウチでよく話題に出るから、母がぜひご挨拶したいって言ってたの。じゃあ詳しいことが決まったら連絡するわね」
 
 食事のあと、真由美とは駅前で別れた。別れ際、剛はバースディパーティとは別に真由美をデートに誘ってみた。すると、ちょうど真由美も勉強の息抜きがしたかったようだ。後日、真由美から電話をするので、来週の金曜日に遊びに行こうという約束をとりつけ、剛は夢見心地で一日を終えた。

 だが翌週の木曜日の夜になっても真由美からの電話はなかった。
 剛は焦って自分から電話してみる。真由美の携帯はずっと留守電だった。ようやく夜になって真由美から電話がかかってきた。喜び勇んで電話に出る剛。
「明日、どこ行く?」
 だが真由美からの返事は冷たかった。
「ごめん、ちょっと明日、そういう気分じゃなくなっちゃったの。またにしてくれる?」
「じゃあ、近くで会おうよ。駅前でもいいし」
「う〜ん、明日はやめとく」
「なんで」
「理由はないけど…。きっと午後はジムに行くわ」
 そう言って、一方的に電話を切られてしまった。

 その夜、剛は眠れなかった。はじめて真由美に約束を断られたこともだが、自分とのデートよりもジムで鍛えることを優先するって? それが何よりショックだった。
 金曜の午後、剛は前回待ち合わせした駅前のコンビニで立ち読みしながら、ずっと考え込んでいた。向かいのビルのジムのある階を見上げた。真由美は「きっと午後はジムに行くわ」と言って電話を切ったが、本当にジムにいるのだろうか。
 真由美に会いたい。ジムに行こうか、やめておこうか。
 いるのだと仮定して、ジムを出てくればここで分かる。とりあえず待ってみよう。
 だが、あまり長い時間立ち読みしていたので、コンビニ店員も剛のことを気にしだした。
 1時間以上迷いに迷って、とうとう西日の差し込む夕方、ジムのビルのエレベーターのボタンを押した。エレベーターを降り、見慣れたジムの入口からそっと中に入ってみる。
 入口は開いていたが、今日はインストラクターには呼び止められなかった。廊下の明かりも全部は点いていない。あまり人気のしないジム。本当に真由美はいるのだろうか?
 泥棒のような気分で廊下を歩いていくと、マシンルームの明かりが点いていた。
 そーっと覗いてみる。
 そして、そのなかにやっぱり……真由美はいた。
 廊下のガラス越しにそっと真由美の様子をうかがう剛。
 そこで目撃したのは……剛の前でいままで一度も見せたことのない、クラスの男子も女子も震えあがりそうな、真由美の気迫にあふれた姿だった。

 ついこの間、剛の隣りで軽々とマシンをこなし、剛のプライドを完膚なきまでに叩き潰した真由美。
 だが、なんということか。いま真由美は、全身にぽたぽた流れるほどの汗を掻きながら、剛と並んでやった時とは別人のような真剣な形相で、レッグプレスに挑んでいた。ちょうど今、たたんだ脚を伸ばし始めたところだ。ふくらはぎの筋肉がおそろしいまでの膨張を見せたかと思うと、徐々にその筋肉の膨張が太腿部にまで流れ、脚全体に筋肉のスジが表出した。
 静寂のなかに「うっ!」と真由美の苦悶の声が漏れてくる。しかし、その苦悶とは裏腹の「負けないわ」という真由美の立ち向かっていく強い表情。 
 ふと剛は、このあいだ自分が45kgで断念したレッグプレスマシンを、真由美は100kgながら優雅にこなしていたことを思い出した。けれどもあの時、真由美の脚は筋肉の隆起すら見えず、ひたすらセクシーだったのだ。
 ひょっとして……? 剛は遠目ながらも、真由美に気づかれないように背伸びして、そのウエイトを確認した。
 まさか! ウソだろ!!
 ウエイトは極厚が9枚。180kgだった。
 なんと剛の測定値の4倍の負荷に挑んで、いま、それをこなそうとしている。
 真由美の、普段は誰にも見せない、鍛え上げられた極太の筋肉が凄まじいまでの威力を発揮して、いま180kgのウエイトを擁するマシンの圧力をはねかえしていく!
 それは、何と力強いことか! まさに力と力のぶつかりあいだ!
 真由美のどこにこんな根性があるのだろう。
 そしてついに……真由美はしっかりと脚を伸ばしきった。マシンの計測器が計測完了の電子音を鳴らす。真由美が180kgとの戦いに勝利した瞬間だった。
「ふ〜う! 目標達成ね」
 だが、真由美はけっして笑ってはいない。
 剛はこんな顔をどこかでみたことがある、と思った。
 そうだ、世界陸上で記録を更新していた女子アスリートの表情だ。女性ながら強くて魅力的な彼女たちの表情をテレビで見て、「なんてセクシーなんだ」と呆然としていたのは剛の父だ。今の真由美の姿には、剛の父もうっとりするだろう。
 剛もいま、真由美の一挙手一投足に釘付けだった。まぶしい強さを見せつけられて、金縛りにあったかのようにその場を離れることが出来ない。
 当の真由美は剛に見られているとも知らず、少し休むと、今度はバーベルの方に行く。
 そして、あらかじめ一定のウエイトが装填された場所でベンチプレスを始めた。そのウエイトが何kgなのか、剛からは確認することができなかった。しかしこの間、真由美が最後に挙げていた65kgよりも大きいことは間違いなかった。
 寝そべった真由美の表情が、また怖いほどの鋭い目つきになっていく。だが、その力強い視線の放つ魔性の魅力に剛はどんどん惹き付けられていく。
 大きく息を吸い込むと、真由美の胸も大きく膨らむ。そしてバーベルをがっしりと掴み、いま、持ち上げ始めた。息を吐き出すと同時にその肩に、二の腕に、ヨロイのような筋肉の形がはっきりと浮かび上がる。しかも息を吐き出したというのに、胸回り全体がダイナミックに持ち上がっていた。真由美の逞しい胸筋が、いま、その姿を露にしたのだ。
 この前、剛の前で楽々と筋肉のしなりを楽しむように上げ下げしていたのは、真由美にとっては軽いお遊びだったに違いない。剛はそのことを思い知らされた。
 しかし、剛の時より遥かに大きなバーベルを挙げても、さっきのレッグプレスのような限界値ではなかったようだ。真由美は腕を伸ばしきると、今度は汗まみれになりながら、深く息を吸い込み、肘を曲げていく。それでもバーベルを下ろしきることはないまま、ギリギリと限界まで筋肉をたわめた姿勢で息を止めて静止した。
 肘を曲げ、この姿勢でバーベルを持ったまま静止するなんて! 
 見ると、タンクトップがめくれあがったお腹あたりには見事に割れた堅そうな腹筋が見えた。真由美の上半身の筋肉は、いまタンクトップのなかで総動員されていることだろう。
 再びゆっくりとバーベルが持ち上がっていく。歯をくいしばる真由美。やはり真由美が限界に挑んでこの重さを挙げていることがわかった。1回目の時よりも遥かに厳しい表情。
 そう…きっとこれが、剛のまだ知らない本当の真由美の姿なのだ。驚異的な身体能力を持つ真由美が本気を出せば、おそらく剛など、片腕の力だけでねじ伏せられてしまう。
 そうだと頭で理解した瞬間、剛は金縛りのようになっていた自分に気づき、我に返った。
 我に返った理由は……簡単だった。下半身が激しく興奮し、体内の血が逆流したように、激しくそそり立ったままどうにもならない。どうしたらいいんだ!
 まるで真由美によって、下半身の自由を奪われてしまったかのようだった。

 剛は今日、真由美に逢いたい一心でここに来たのだった。だが、こんな姿を真由美の前にさらすわけにはいかない。ここはそっと退散することに決めた。
 剛はすり足でジムを立ち去ろうとした。無人の廊下を出口に向かう。それにしても、こんなに立ち上がっていると歩きにくくてしょうがない。しごいたら軽く暴発してしまいそうだ。
“ピピピピピ、ピピピピピ”
 だが、その時、非情にもケータイの発信音がなってしまった。剛はケータイをマナーモードにしていなかったのだ。その音は廊下に大きく鳴り響いた。ヤバい、真由美に聞こえていたら、廊下の様子を見にくるに決まってる! 早く隠れないと!!
 だがケータイを切ろうと見ると、その発信は意外にも真由美からだった。
 剛は一瞬迷ったが、おそるおそる電話に出る。
「もしもし……」
「……あ、剛? いま、どこにいるの?」
「(ヤバっ! どう答えようか…?)」
「何黙ってるのよ(笑)、私のトレーニング見てたくせに」
 真由美は剛が廊下でこっそり見ていることをお見通しだったのだ。
「黙って帰っちゃうつもり? 私に会いたかったんでしょ?」
「う、うん」
「じゃあ、コソコソと覗いてないで、こっちにおいでよ」
「いや、その……今日は帰るよ…」
「ウフフ、さては私の筋肉を見て、前のほうが大変なことになってる?(笑)」
 剛は焦った。真由美にそんなところまで見抜かれているなんて…。
「いいから、恥ずかしがらずにいらっしゃいよ」
 剛がおずおずとマシンルームのほうに行くと、真由美はニコニコと待ち構えていた。その格好は確かにさっきまでの真由美と同じだが、別人のようにカワイイ。普通に立っていると、あの凄まじいまでの筋肉も、ほとんど見ることはできない。
「俺のこと、見えてたの? 絶対気がつかないように隠れてたつもりなのに」
 真由美はただ微笑んでいる。
「正直言うと見えなかった。だけど、何となく背中に気配を感じたの」
「まさか(笑)」
「ずっと前に母が父にこう言ってたわ。女には、男にはない不思議な第六感があって、女にそれがある限り、男は女の上には立てないんだって。その第六感みたいなものかな? 剛も覚えておくといいわ」
「でも、その気配がどうして俺だって…?」
 すると真由美は答えた。気配がするとしたら剛以外考えられないと。なぜならば、剛が覗きに来ることはわかっていたからだ、と。
「だって、私がそういうふうに仕組んだんだもん。剛のケータイ鳴らしてみたら、案の定、ピピピって音がして笑っちゃった!」
 真由美は剛をふたたびジムに来させるために、わざと剛に冷たくしたのだ。そのことに剛はたったいま気づいた。
「どうだった。特別に見せてあげたのよ、私の本気を! 亜沙美以外には滅多に見せないんだから。興奮してくれたかな?」
 剛のアレは確かに興奮している。だがその理由を言葉に出していいものか?
 認めると、それは自分の変な性癖をカミングアウトすることになりはしないか?
「いいのよ素直になって。剛が私の何に興奮してそうなってるか、もうわかってるんだから! 私も結構嬉しいのよ。だって、それって私のカラダに魅力があるってことでしょ(笑)」
 剛は精一杯隠していたつもりだが、やはりバレていたのだ。そういえばこの間、麻衣子にもすぐにこの性癖を指摘されてしまったのだった。
 男をそうさせるような強い女性は、経験から、すぐに見抜いてしまうのだろうか?
「どれどれ…」
 真由美はそう言って中腰になり、剛の膨らんだ下半身を興味深そうに凝視すると、いきなりベルトを抜き取って、ジーパンを、そしてパンツまであっさりと下ろしてしまう。
「真由美、うそだろ、うわーっ」と慌てる剛。
 すると、パンツの中から上向きにそそりたった見事なアレが姿を現した。
 真由美はそれを一瞬、観察すると、
「ウフフ、効果は十分だったみたいね。安心なさい。いま落ち着かせてあげる…」
 そう言って部屋の隅からティッシュを数枚抜き取ってくると、目の前のペニスをティッシュでくるみ、剛の顔を見て笑った。
「用意はいい?」
 すかさず真由美は慣れた手つきでグニュグニュッと優しくペニスを刺激する。
「あ、う〜〜ん」
 静かな悶えとともに大量の白濁の液がティッシュを濡らす。
「フフ、なかなか元気じゃない(笑)」
 真由美は平然と2、3度ティッシュを変えると、最後まで白濁の液体を拭き取り、剛に広い背中を向けながら、洗面台で手を洗う。
「大丈夫。私は結構、知識あるのよ。ダテにアメリカ生活送ってないから。向こうはみんな早いんだよ。性教育も進んでるし…まあ、私にまかせて」
 剛はこともなげにすべてをリードする真由美に、もうタジタジだった。

 一方、真由美は、今日、とことんまで剛のMを引き出し、開発してみる覚悟だった。そのために、ここ数日、用意周到に考えてきたことを着実に実践していた。
 剛がジーパンを履き直すと、
「せっかく来たんだから、今日はね、私が特別に体幹チェックをしてあげる。これ、いつもは麻衣子さんしか許されてないんだけど、剛は私が見てあげたかったから…」と言いつつ、奥の部屋に案内する。
「えっ、何? た・い・か・んレッスン…? ああ、この間玲子たちが言ってたやつ?」
 剛はわけがわからず戸惑うしかなかったが、いまは真由美に従うことにした。
 真由美は自分で「こうする」と宣言したことは、必ずそうする。剛が反対しても、絶対に変えない性格であることは、痴漢を撃退したときや、ボートでデートしたときなど、さんざん見せつけられてきたからだ。
 奥の部屋はマシンルームとはちょっと雰囲気が違った。駅前の様子が見下ろせる窓があるが、2本のサンドバッグが下げてあり、また、壁にはクッション材のようなものが張り付けてあった。
「体幹レッスンじゃなくて体幹チェックよ。レッスンの前に、もともとの体幹がどのくらい鍛えられているかをチェックするの。電気の通りかたで、負荷がかかった時の筋肉の反応を見るやつ」
「ふ〜ん」
 真由美の言葉を聞いても、剛には、まだ何をするのか理解できていない。
「まあいいわ。私の言う通りにして。まずはその床に印のあるあたりに立ってみて」
 部屋の隅のほう、クッションを張った壁近くの床に立ち位置を示す印があった。
 剛がその印の位置に立つと、真由美はその身体を嘗め回すかのように、剛の周りをぐるりと回り、カラダのいたるところに心電図のような電極クリップをつけた。電極のコードは測定機器とつながっており、真由美はその機器のスイッチを入れ、モニターがつくのを待っている。
 そして、「じゃ、ちょっと驚かすかもしれないけど(笑)、足を拡げて踏ん張って。我慢してしっかり立っててね」といって背を向けたかと思うと、突然に剛の方に向き直る。
次の瞬間信じられないことだが、真由美の日焼けして黒光りした長い脚が宙を舞い、いきなり剛の左の太腿を、バシッと軽く蹴りあげてきた。
 いきなりの回し蹴りにふらつく剛の身体。真由美はかなり手加減して蹴ったように見えたが、それでも受けた衝撃は想像以上だ。
「ごめん、いきなりで。でも最初に構えられちゃうと、ちゃんとした数値が取れないのよ」
 そう言って真由美は、モニターの中を見ると、部屋のパソコンに何事か打ち込んでいる。さっきの説明からすると、モニターには真由美のキックを受けての筋肉の反応が出ているのだろう。
「じゃあ、今度はもう少し強く蹴るけど、我慢してね」と笑っている真由美。その顔は、剛にキックを浴びせることを楽しんでいるかのようにも見える。
 剛がビクビクして身構えていると、
「やだ〜、そんなに怖い顔しちゃ蹴れないじゃない?」と困った顔をしてみせながら、剛が油断した一瞬を見透かしたように、さっきよりも素早い一撃を今度は左の腰に見舞ってきた。
「うぐっ!」
 今度は耐え難い痛みが走り、剛は思わず声を発してしまった。だが真由美はそんなことおかまいなしに、すました顔で、またモニターを確認しパソコンに向かった。
「今のは凄く反応が出たわ。相当痛かったのね。でもあと1回、ちょっと強めに蹴らしてほしいんだけど、いい? やだったら、ここでやめてもいいのよ。ただし、データはとれないけど。どうする?」と剛の希望を聞いてきた。
「平気だよ」と剛。
 真由美の明らかに手加減したキックぐらい、ぜんぜん平気だということを示しておきたかった。
「じゃあ、最後にもう1回だけ…頑張ってね」
「うん、ぜんぜん大丈……」
 心の準備をする余裕もなく、真由美の3回目のキックが放たれた。
 真由美の長い脚が剛の横っ腹をえぐるニブい音がし、直後、誰もいない静かなジムに胃液の逆流するような音がした。
 剛は立った位置から後方に押されるように壁に激突し、壁のクッションの弾力を受けて床に転んだ。壁にクッションが張り付けてある意味がいまわかった。クッションがなかったら、気絶していたかもしれない。
「大丈夫だった?」
 倒れた剛に真由美は右手を差し出し、上から引っぱりあげてくれた。
「ちょっと強すぎた? 1回目、2回目の感じだとこれぐらいは耐えられると踏んだんだけど、ちょっと蹴る位置を上にしたら、意外に体幹が脆かったわね」
 立ち上がっても剛は頭がクラクラして、その場に座り込んでしまう。その時、またも下半身が立派に立ち上がっていることに気がついた。真由美のキックの威力への畏怖と憧憬は、もう隠しようがなかった。

「(あらあら、今日の剛のアレはホントに忙しいわね)」
 真由美はそれに気づきつつも平然と無視して、またパソコンに数値を打ち込んだ。
 だが、その“平然”は、真由美の精一杯のフリだった。実はちょっとドキドキして、その興奮を悟られないように、剛から離れ、窓から外を眺めて考えていた。
 ここまで計画通りに剛を“調教”してきたつもりだった。本来、こんな変テコな体幹チェックなんてものはありえない。だが、剛をその気にさせるために、ジムにあるリハビリの機器を使って、用意周到にひと芝居打ったのだ。
 いつも通り冷静な真由美の気持ちに変化が起きたのは、3回目のキックが決まった瞬間! これまでに感じたことのない興奮が真由美の脳裏を貫いたのだ。
「(ああ、なんて快感!)」
 真由美のキックを真正面から受け、その餌食となって苦悶の表情を浮かべる剛の姿が、一瞬、スローモーションのように見えた。その顔がなんだか「かわいい」と思えたのだ。
 最初、どうしてそう感じたのかわからずに困惑した。だって、剛を痛めつけておいて、何が気持ちいいのか?
 真由美にはこれまで、玲子や美紀が「男子に対抗しようとする気持ち」がわからなかった。その根底には女子の男子に対するコンプレックスがあると思ってきた。
 幼い頃から何においても男子に負けなかった真由美には、そんな対抗心はハナからない。むしろ、剛ができないことを率先してリードして、剛を助けてきたつもり。だが、そうする真由美に対しイジける剛を見ることで、最近、剛を「愛おしい」と思う感情がどんどん育ってきたことも否定できなかった。なぜなんだろう…?
 真由美の母は、以前にこんなことを言っていたことがある。
「覚えておきなさい。動物の世界は、雄が雌を見上げ、雌が雄を見下ろすことが自然な姿なの。どうしてか判る? 雌が子供を抱いて育てるからよ。だから本当は、男は女に見下ろされて頭を撫でられることが一番気持ちが落ち着くし、女は泣いている男を見ることが愛情が湧くきっかけなの。真由美も本当に好きな人ができたら、きっとこの気持ちが判るわ」
 いま、真由美には、玲子や美紀の気持ちがよく判った気がした。玲子や美紀が男子に勝とうとするのは「対抗心」なのではなく、威張る男子の「頭を撫でたい」と思う女の本能なのかもしれない。 
 強くなった女子が、好きな男子にその能力を見せつけて、上に立つのは当然のことだ。
 そして真由美は、いま自分がそうしたい相手をはっきりと認識した。私はやっぱり剛のことが好きなんだ。剛を可愛がることが何よりも嬉しい! 剛が私に負けて、くやしい表情をするのがもっともっと見てみたい。
 真由美はじっくり考えて、ようやく頭のなかを整理できた。
 これから自分のしたいことが見えてきた。
 もう窓の外は薄暗かった。だが、ジムの向かいのビルのガラスに反射した日暮れ前の最後の太陽光線が窓から差し込み、一筋のオレンジの明かりが、たまたま真由美の立つ窓際だけを明るく照らしている。
 剛は窓際に立つ真由美を見た。スポットのような光が真由美を包み、そのシルエットは、彼女のスレンダーだが逞しく引き締まったボディラインを強調し、あたかもギリシャ彫刻の女神のように見せていた。この世のものではないように…。
 その姿に引きつけられ、剛が近づいてきた。
「真由美、すげえキレイ」
 剛はシルエットのボディラインの凄さに驚愕し、特に、その引き締まった腹筋に目を見張っている。
「触ってみる?」
 真由美は剛の左手を取ると、なかば強引に自分の腹筋を触らせた。
「わっ、すげえ。カチカチ…」
 すると、真由美はふざけたように剛のお腹に一発軽いパンチを食らわせる。思わず苦しがる剛。そんな姿もいまの真由美にはかわいい。
「剛はぜんぜんダメね。いいからここでもっと鍛えなさい。そんなことじゃ、私についてこれないわよ!」
 真由美は、剛に対して上から目線の言葉も、もう抵抗なく言えるようになっていた。
 
 みるみるうちに外は暗くなり、ふたりだけの部屋はほとんどが闇に包まれた。薄暗い部屋のなかで、窓の外からの駅前のネオンの明かりだけが、ふたりを照らしている。
 剛が照明をつけようとすると、「このままでいい」と真由美が止めた。
「ねえ、剛」
「なに?」
「このあいだの答え、まだ貰ってないんだけど」
「えっ」
「私、キスしたんだよ。意味わかってるよね。その答え」
「あ、いや、その……」
 真由美は剛をにらみつけている。しばらくの沈黙が流れた。
 やがて剛は真由美との距離をやや縮め、歩み寄った。そしてちょっと背伸びして、5cm背の高い真由美にキスしようとする。
 だが、真由美は「ダメよ」と、剛の胸を軽く突いた。

「アメリカ式ではね、女性から先に迫った場合、返答する男性はまず女性の前に自然にひざまずくの」
「ひざまづく?」
「片膝を床につけて、こうして私を見上げ、手を差し出す」
 剛は言われるように、真由美の前にひざまづいた。
「これが由緒正しい、恋人同士の儀式なんだよ」
すると、ゆっくり真由美が頭上からスッと右手を差し出してきた。
剛は思い出した。あ、こういうの、外国映画で見たことがあったっけ。必死にその記憶を反芻する。
そうして、ゆっくりと、そして優しく、差し出された真由美の手をとり、その甲にキスをした。
「そう、それでいいのよ」
 真由美がいう。
「剛、ありがとう。(しっかり、私についてきてね)」
 静かな部屋に差し込むネオンの明かりが、ふたりのシルエットを浮かび上がらせていた。
背の高い真由美と、彼女にナイトのようにひざまずきキスする剛。そのシルエットは神聖な愛の儀式を思わせた。 

 それからジムを閉め、ふたりは夜道を一緒に帰った。
 今日はヒールの高いサンダルを履いている真由美は、並んで歩くと剛より15cmは背が高い。
 儀式を終えた真由美は堂々と剛と肩を組んできた。だが、剛が同じように肩を組もうとすると、腕を相当上に回さなければならない。手足も長い真由美は、余裕で剛の身体を包み込むようにしているが、剛は真由美のいる右側の肩を思いっきりあげて斜めの態勢で、不自然ながら、なんとか歩いている感じだ。
 すれ違った女性が思わず吹き出している。それを見た真由美が、
「いいよ、剛は無理しなくて」といった。
「私が抱いているから…」
 
 それからお互いの家の前まで来たところで、
「そうだ、これ渡すの忘れてたわ」と真由美が紙袋を差し出した。
「今日の記念に、私からプレゼントがあるの!」
 紙袋はとても重い。中に入っていたものは手首に巻くリストウエイトだった。
「剛、それ使ったことある?」
「ないなぁ」
「そうなんだ」
 真由美は袋の中から取り出して、丁寧に剛の左右の腕に装着してくれた。
「はい。これでどう? それつけていると自然に手首が鍛えられるわ。カバーは中古で汚くて悪いけど、私が1年使った汗がたっぷり染み付いてるから、きっと効果あるわよ(笑)」
 汚れていても、真由美が使ったものというのが剛には嬉しかった。
 剛は腕を回してみた。が、ウエイトの重みで肩が引っ張られる。すぐに疲れそうだ。
「結構、重いな」
「それ500gなの。袋の中に350gのも入れといたから、もし重いと感じたら無理しないで軽いのにして…」
 袋の中には新品の350gのものも入っていた。
「これ、いつ使うの?」
「いつでもいいけど、早くなれるには長い時間のほうがいいよ。私は昼はずっと付けてる」
「学校でも?」
「そうよ、剛と一緒に遊んでる時も結構付けてた。気がつかなかった?」
 そういえば、ボートに乗ったとき、サポーターのようなものをしていたような気がする。剛はその時、女の子のアクセサリーぐらいとしか思っていなかった、と言うと、
「あの時は、カバーの色を花柄の模様付きのに変えてたから。ああするとアクセにしか見えないでしょ。でもちゃんとウエイトも入れてたわ」
 学校でも最近半袖の制服になってから、いつも黄色いリストバンドをしている真由美を見て「そういうオシャレをするところは、真由美もやっぱり女の子だな」と思っていたのだが、まさかそれで毎日鍛えていたとは!
 しかも、このウエイトを両腕につけて、剛よりも長時間オールを操っていたなんて
「でも、ほんとにこれもらっていいの?」
「もちろん」
「よーし、明日から鍛えて少しは真由美に追いつかないとな」
「がんばって!」
「でも真由美は? 俺、この真由美のお古のカバーだけもらえれば十分嬉しいんだけどな。中のウエイトは自分で買うからいいよ」
 すると真由美は言った。
「実は500gのウエイトは、もうかなり前から使ってないの。1学期はずっと1kgのウエイトを付けてたんだけど、来週、母に1.5をねだろうかと思ってて(笑)。亜沙美にあげようとしたら、亜沙美は試してみて1kg がいいって言うから、それは剛にちょうどいいかなって思って。でも…そのカバーはわりと最近まで使ってたやつよ、ウフフ、嬉しいでしょ(笑)」
 真由美は剛の心を見透かすようにニヤニヤしている。
「真由美は1kgから1.5kgに……」
「そう、パワーアップするの。だから私に追いつくのは無理かもね。でも、まあ期待してるわ(笑)」
 そう言って茶化しながら、真由美はお向かいの自分の家に帰っていった。


(第30話 完)





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