才能

【9】

姫華は無事、インターナショナルスクールに進学した。

教科が選択式で飛び級制度もあるため、姫華にとってもかなり良い環境だった。
小学校時代はいろいろと問題になったスポーツ系教科を取らなくて済むというのが先ず大きい。
そして、クラスメイトも多国籍なためか、フランクでいて、それでいて立ち入って来ない。
みんな比較的、身体が大きいので姫華の大柄さが目立たないというのもある。

新しい学校での生活が予想以上に良かったということもあって、自然と『課外活動』にも精が入った。


そんなある日。

「最近、毎日が楽しいみたいだな」
「うん、空手も、ボクシングも、水泳も、みんな楽しいよ♪」
それは良かった、と黒田は食事を続けた。

食卓に並ぶ、相も変わらずの豪勢で大量の食事。当然、ほぼ大半が姫華の食べる分だ。
黒田は勿論、姫華も多忙になってしまったため、二人の時間がなかなか取れなくなってしまった。
なので、せめて食事は一緒にしようというのがいつしか暗黙の了解になっていた。

「そういえばね、今度、空手道場に元プロの人が先生で来るみたい」
「・・・へぇ」
空手家だけに限らず格闘家で、プロで食って行くのは存外、難しい。

格闘技興行には"黒い影"は付き物だが、昨今はそういった"もの"を嫌う傾向にある。
格闘技団体の"バック"が興行のTV放映にかこつけて、多額の放映料を吹っかけるなんてのはよくある話。
しかし、視聴率が取れなくなった今、そんなものを払うぐらいなら放映そのものを切ってしまうのが今のTV業界だ。
そうなれば、興行収入だけではやっていけない格闘技団体はどうなるか、明白だろう。

黒田は"仕事柄"、そういった事情には詳しい。

「・・・ねぇ」
姫華が何かを強請るような口調で言った。

「ダメだ」
「え〜、まだ何も言ってないのに〜」
姫華は口をぷ〜っと膨らませる。

「どうせ、『組手したい』とか言い出すんだろう」
「何でわかったの・・・。どうしても、ダメ・・・?」
バレバレならそれはそれで、と姫華もワザと"しな"を作って上目遣いに演技をした。

「元プロったってな・・・。お前の相手になるわけないだろう。闘技場でなら幾ら壊しても構わないが・・・」
「え〜、やってみないとわからないよ。それに、『試合』じゃなくて『組手』だよ?」
姫華の主張も尤もだろう。

空手を習って一年に満たない"少女"が元プロの空手家と組手をしたい、そう言っているだけなのだ。
しかし、その"少女"は食べるたびに筋肉が躍動し、モリモリッと動く。
そんな少女は世界広しといえど、目の前の姫華ぐらいだろう。
そもそも、"少女"という形容さえ合っているとは言い難い。

「あー、今すごく失礼なこと考えてたでしょ」
「・・・気のせいだ。しかし、その空手家・・・名前は何て言うんだ?」
姫華は相変わらず、ぷーと口を尖らせながらもえーっと、と思案を巡らせる。

「・・・確か、『逆輝 丈(さかき じょう)』っていう名前だったかも」
「『逆輝 丈』!?」
黒田の驚いた様子に、今度は逆に姫華が吃驚してしまった。

「知ってるの?」
「ああ、俺じゃなくても知ってるぐらい有名人だ。少なくとも、前に闘ったハリスよりは有名だ」
嘗ては、表舞台で活躍した総合格闘家ハリス。以前、姫華が斃した相手だ。

逆輝 丈。

国内の空手大会で数々の優勝経験を持ち、無名だった流派『精心館』空手を全国区にまで押し上げた。
その後、顔面無しのルールに異を唱え、キックボクシングの世界に進んだ。
そして、積極的に総合格闘技の大会に参加し、世界の強豪相手に互角に渡り合った。

国内でも珍しいヘビー級ということもあり、そういった意味でもハリスよりも遥かに有名であるといえる。
ただ、有名であるが、どちらかといえば好き嫌いの分かれるタイプの格闘家だった。
180p超の長身に粗暴な強面。そして、その粗野な風貌に見合ったラフなファイト。
ほぼ9割が男性ファンというところからも、そのファイト振りが窺える。

「まあ、お前が知らなくても無理ないか。表舞台から姿を消してもう何年も経つしな」
そんな場末の道場に居るとはまさか、黒田も思わなかった。

実は、『逆輝 丈』は闘技場の姫華の対戦者リストに名前が挙がったことがある。
上背は勿論、体格でも姫華に負けていない。ネームバリューもある。

しかし、逆輝は粗野で粗暴"過ぎた"。
判定に不服だと、勝ち負けに関係なく、試合後に相手控え室に乗り込むなど日常茶飯事だった。
そして、その見た目に紛うことなく、逆輝には"黒い噂"が絶えなかった。
『団体』としてではなく『個人』として、"バック"を持っているという噂。
どういう経緯で、どういう繋がりがあるのかはわからないが、
そういうクリーンでない選手は、『団体』としては使い辛い。
現に、その強さとは裏腹に、逆輝は徐々に試合を減らし、いつしか表舞台から消えていた。

「死んだっていう噂が立ったぐらいだからな。仕事にあぶれて古巣に転がり込んだってとこなんだろう」
姫華が通う『精心館』空手こそが、逆輝が名を上げたその流派だった。

勿論、姫華が通っているのはその支部であり、本部ではない。
黒田は、姫華に空手を習わせるにあたって、通学路にあるという利便性。そして、自由度の有無で選んだ。
ガチガチの道場訓に縛られることなく、習う者が組手が嫌だといえばやらずに済む。そういう自由度。
『精心館』は、元々は弱小流派ということもあり、その辺の自主性は各個に任せられている。
姫華は別に空手で向上したいわけではなく、単に身体の使い方を学びたいだけなのだ。

黒田が姫華を『精心館』に通わせたのはたまたま。それ以上でもそれ以下でもない。
そして、嘗てリストアップした逆輝の元流派が偶然、"そこ"だったいうだけの話。

「そこに、"符合"なんてあるわけない・・・よな」
目下、絶賛食事中の姫華を尻目に、黒田はそう一人ごちた。

「とにかく。大森先生には、くれぐれも姫華には組手はやらせないで下さいって頼んであるんだからな」
大森先生とは、師範代で姫華が通う支部の道場主。黒田の『頼み』に素直に応じてくれた好人物だ。

「・・・はーい」
食事の手は止めず、しかし不満気に姫華はそう返事した。

もし、向こうから言って来たらどうしよう、という疑問を姫華は目の前の食事と一緒に飲み込んでしまったのだった。


そして、姫華の通う道場に逆輝が現れる日がやって来た。


「すげー、本物だぜ」
「マジで初めて見た」
門下生が口々に話している。

本来なら、TV中継か、高いチケットを買ってでもしなければお目に掛かれないような元スター選手なのだ。

「皆さんも知っての通り、今日から指導にあたってくれる逆輝先生です」
「えー。今日から指導する逆輝だ。よろしく」
大森師範代の紹介に、後ろ手に手を組んだ気を付けの姿勢で、逆輝は言葉少なに挨拶を済ませた。

180pオーバーの身長でヘビー級の体格。
それだけでも充分に迫力なのだが、逆輝の迫力はそれ以外の部分によるものが大きかった。

鋭い眼光に、ボサボサの髪。道着から見える浅黒い肌には、無数の傷痕。
その傷痕も、試合で付いたというだけでは説明が付かない、刀傷のようなものまである。

「今日の指導は逆輝先生にお任せしてあります。では、逆輝先生」
「ええ。では先ず、打ち込み稽古から」
好奇の目に晒されるのは慣れているといわんばかりに、ざわつく周囲を気にせず指導に入った。

「セイ!セイ!セイ!」
皆が規則正しい掛け声で打ち込み稽古をしている。その周りを縫うように逆輝が見て回る。

「!? 何だ・・・お前は」
皆と同様に打ち込み稽古をしていた姫華の前で、逆輝の足が止まる。

「セイ!セイ!セイ!」
姫華は手を止めることなく、打ち込み稽古を続ける。しかし内心、またか、と思っていた。
大森や他の師範代もそうだったのだが、姫華の道着姿を見ると、誰もが一度は驚く。例外なく必ず、だ。

逆輝も長身だが、姫華はそれよりも大柄だ。しかし、道着のサイズは明らかに何サイズも上だった。
それもそのはずで、競泳水着同様、この空手道着も特注によるものだ。
普通に身長に合わせただけの道着では、姫華は着ることが出来ない。
圧倒的迫力の胸周りのせいで、裾の丈が全くといっていいほど足りないのだ。
水着と違って空手着は伸縮性がそれほどでもないので結果、不恰好な道着姿になる。

「手を止めて良いぞ」
「・・・はい」
逆輝に指示で、姫華は打ち込み稽古の手を止めた。他の者はまだ変わらず、打ち込み稽古を続けている。

「道着が馴染んでないにも程がある。入ってどのぐらいになる?」
「半年ぐらい・・・です」

「半年!? ガハハ、お前みたいにどうやっても道着が似合わない奴も居るんだな」
「・・・・・・・・」
どう好意的に見ても、嘲りの意を含んだ笑い。姫華にも容易にそれが見て取れた。

「よぅし、打ち込みヤメ! 次は組手だ。各自、ペアを作って組手を始めろ」
逆輝はそう他の皆に指示すると、今度は姫華に向き直った。

「お前は俺が直々に組手をしてやる」
ニヤリと笑う逆輝。

「はぃ・・・あ、いえ・・・。実は私、組手は・・・」
「ん? 何だ? 怖じ気付いたのか? んん?」
「あー、逆輝先生!」
明らかに挑発している逆輝に、遠目で見ていた大森が駆け寄って来た。

「すみません、逆輝先生。この子、組手はダメなんですよ」
「組手がダメ・・・? どういうことです? 半年もやってれば、組手ぐらいやってるでしょう」
逆輝が嘗め回すように姫華の全身に目を遣る。
不恰好な道着姿のせいで正確な体型はわからないが、少なくとも身体が出来ていないなんてことはないはず。
逆輝でなくとも、初めて姫華の道着姿を見た者なら皆そう思うだろう。

「この子はちょっと、事情がありまして・・・」
「事情ねぇ・・・。まあ、良いでしょう。ヨシ、お前はそのまま打ち込みを続けろ」
「・・・はい」
やけにアッサリと引き下がった逆輝を疑問に思いながらも、姫華は打ち込み稽古を再開した。

姫華の懸念を余所に、意外にもそれ以降、その日は逆輝が姫華に絡んで来ることなく無事に終わった。


姫華が通う『精心館』空手道場の支部は、それなりに門下生が多い。

人によってスケジュールがまちまちなので、人の多い日や少ない日は日によって違う。
人の多い日は複数の師範が指導に当たるのだが、人の少ない時は師範が一人だけという日もあった。

逆輝が指導をするようになって数日後。

この日は門下生が少なく、逆輝が一人で担当する初めての日だった。
しかし、その日も無事に終わり、姫華が帰ろうとしたその時。

「おい、黒田。お前はちょっと残れ」
そういって着替えに更衣室へ行こうとした姫華を逆輝が呼び止めた。

「・・・え、でも」
「良いから、残れ。お前は組手をやってないせいで、他より遅れているんだ」
それは逆輝の口実だった。実際、姫華は型や打ち込み稽古に関しては他に遅れは取っていない。
しかし姫華は、敢えて見え見えの誘いを掛けて来た逆輝の魂胆を確かめたいに欲求に駆られた。

「今のお前の実力が見たい。それ次第では、稽古内容を変えないと、な・・・」
「・・・わかりました」
声を押し殺してはいたが、明らかに含み笑いをした逆輝の表情を姫華は見逃さなかった。

姫華にも当然、組手ないしそれ以上のことを求めてくるのはわかっていた。
それに応じれば、黒田の言い付けに反することになる。
しかし、姫華が空手やボクシングを習った本来の目的、それは『力加減の習得』の為だ。
それの丁度良い機会だと、姫華は思ったのだ。

「パパには後で謝ろう」
そう思いながらも、姫華は自分の"上達具合"を実践出来ることにワクワクしていた。

「おーし! お前ら、入って良いぞ!」
逆輝の号令に応じたのか、人の退けた道場にぞろぞろと数人の男たちが入って来た。全員が黒帯だ。
空手道着を着てはいるが、さっきまで道場に居た門下生ではないのは確かだった。

「こいつらはまあ、そうだな。俺の『弟分』みたいなもんだ。今だけの特別門下生ってところか」
ガハハ、と逆輝は厭らしく笑う。

「なーに、見学者が稽古に参加したいなんてのはよくある話だろ?」
確かに、道場の見学は一般に開放されているし、今までにも見学者が居たことはあった。
しかし、今日の稽古には見学者は居なかったし、そもそも見学者が道着を着込んでいる時点でおかしい。

「そうですね。・・・ただ、一つ確認させて下さい」
「ん、何だ?」
姫華は努めて事務的に感情を込めず、それがただの予定調和の確認作業であるかのような口調。

「私が組手を"やらない"のは・・・」
「あー、その辺の事情は聞いたぜ」
姫華の言葉を、逆輝が途中で遮った。

「何々・・・『力が強過ぎるから』、えーと、『手加減出来ないので相手を怪我させてしまう』んだったっけか、ククク」
逆輝に釣られて、男たちもククク、ハハハと笑っている。

「なーに、心配は要らねー。それに、こいつらはそんなにヤワじゃねー。
 仮に、だ。もし、"誰か"が怪我をしたとしてもそれは事故。稽古中のただの事故。そうだろう?」
「へい」
逆輝の疑問符に男たちの内の一人が答えた。

「それに、だ。俺からすりゃあ、試合だろうか稽古だろうが喧嘩だろうが、負ける方が悪い。
 やるからには真剣にやらねーと意味ねーだろ?」
「それを聞いて安心♪」
そういって姫華はニッコリと笑った。

「へー、この状況でもビビんねーとは大したもんだ。おい、一村!」
「へい!」
逆輝に一村と呼ばれた男が姫華の前に出た。逆輝ほど上背は無いが、体格は比較的ガッシリしている。

「ルールは実戦組手。まあ、流派通り顔面は無しで良いだろう」
『実戦組手』とは、寸止めではなく、相手に打撃を当てる実戦形式の組手のことだ。

程なくして道場の中央辺りで姫華と一村が並ぶ。やはり身長差があるのか、一村が姫華を見上げる形になる。

「ほぉ。ガタイだけは良いんだな。打ち込み甲斐がありそうだ、ククク」
「おじさん、本気出してね?」
文字通り、見下ろす形になる姫華が至極、真面目にそう呟いた。

「ハハハッ、良いぜ。白帯のお嬢ちゃんにその実力があれば、だけどな。
 どうだ? 先に打たせてやるから打ち込んで来な」
一村は、姫華の言葉を経験のないズブの素人の戯言だと思ったのだろう。

「うん、わかった♪ じゃあ、行くね・・・」
そういって姫華は中段突きの構えを取る。

ズドン!

「・・・え?」
次の瞬間。一村の腹部に姫華の中段正拳突きが突き刺さっていた。一村には拳の軌道が全く見えなかった。

「う・・・うげごあぉおおぉぉぉっ!!!」
一村の激しい嘔吐。吐瀉物を撒き散らし、一村はその場に前のめりに倒れ込んだ。

「え? あれ? もう終わり? あの時よりも手加減したのに・・・」
あの時とは当然、プールでの一件のことだ。
自分の吐瀉物にキスをするところまで、プールの時の相撲部員と全く同じだった。

勿論、相撲部員の大学生と比べて、一村は遥かに強い。だが、これは姫華の方に誤算があった。
空手、ボクシング、水泳を習うことにより、姫華は以前と比べてより身体の使い方が上手くなった。
元々良かった身体のキレが更に良くなり、力加減も前より上手く出来るようになったのは確かだ。
しかし、その結果、"力の無駄"が無くなっていたのだ。
今放ったのは、プールの時のような無駄の多い素人のパンチではなく、フォームのしっかりした正拳突き。
そして、あれから半年以上の時が経っている。姫華の根本的な筋力も増しているのだ。

仮に、プールの時の全力を『100』として、25%の『25』に手加減されたパンチの威力が『15』だったとする。
今は、全力が『110』。20%の『22』に手加減された正拳突きの威力は、ほとんど無駄のない『20』。

尤も、打撃の威力なんてものはそんな単純に数値化出来るものではないし、論ずるまでもないだろう。
一村がどんなに鍛えた腹筋を持とうと、姫華の怪力正拳突きの前では紙屑同然なのは間違いないのだ。

「おいおい、ざまーねぇなぁ。白帯の素人相手にラッキーパンチなんて貰ってんじゃねー」
ギャハハ、と残りの連中が笑っている。

「おい! 笑ってねーで一村を片せ。次は二倉! お前が行け」
「へい! ・・・ってわけで、次は俺だ」
二倉と呼ばれた男が姫華の前に立つ。一村よりも背は低いがその分、一村よりも体格が良かった。

「セアァッ!!」
開始の合図と共に、二倉が猛然とラッシュを仕掛ける。
二倉の突きが姫華のボディに、蹴りが姫華の脚に何発も何発もヒットする。まさに、打たれるがまま。

「ヒャハハ、滅多打ちじゃねーか」
「おいおい、二倉。白帯相手にいきなり本気かよ。お嬢ちゃんが可哀相だろ」
外野は好き勝手言っているが、当事者の二倉は必死だった。

二倉も、一村がやられたのはラッキーパンチだと思った。しかし、いざ姫華と対峙してみて気付いたのだ。
一村はアンラッキーで負けたのではなく、実力でやられたのだ、と。
姫華が持つ、異様ともいえる威圧感。決して、素人では持ち得ない、その圧倒的なまでの圧力。
それらが、二倉に勝負を急がせた。向こうに打たせてはいけない。打たれる前に倒す。
そんな強迫観念に駆られての一斉ラッシュだった。しかし。

「おい・・・、おかしくねぇか」
外野もそろそろ気付き始めていた。

姫華は構えは取っているが、『受け』も『捌き』も出来ずに一方的に打たれるがまま。外野は皆、そう思っていた。
しかし、だとするとおかしい。どう考えてもおかしい。その違和感の正体は、姫華の表情にあった。

別に笑っているわけではない。かといって、痛みに顔を歪めているわけでもない。
悲しげ、というよりはむしろ、憐れみに満ちた、残念だと言わんばかりのそんな表情。

黒帯の空手家の打撃。それを何十発も喰らって尚、姫華は倒れない。それどころか平然としている。
猛攻を必死に耐え、反撃の機会を窺っているというわけでもない。
相手を値踏みするように、品定めをするように、ただ打たせているだけなのだ。

姫華は言い付けを破ってまで組手をやる以上、得るものが欲しい。
自分が今、どの程度の実力なのかを確かめたかったのだ。
なのに、一人目は手加減したにも関わらず、ただの一撃で倒れてしまった。
ならば、相手に打たせて、そこから自分の実力を推し量ろうとしたのだ。

「ねぇ? "これ以上"がないんだったら、もう良いかな?」
「ひぃっ!? く・・・くそぉっ!!」
二倉はもう後がないと、ついに我慢出来ずに顔面への突きを出してしまった。
もうこうなったらと、二倉は開き直って姫華の顔面へと連打する。時折、上段蹴りも混ぜた。
しかし、当たらない。余裕で見切れるとばかりに、姫華は軽く首を反らすだけでかわす。

「良いよ、そのまま続けて。『捌き』の練習に丁度良いし」
「な・・・?」
二倉は既に右上段蹴りを放っていた。今までかわすだけだった姫華の左腕がそれに合わせて動く。
姫華は迫り来る二倉の右脚を、左腕で外側に孤を描くように捌いた。

ボキャッ!!

「うぎゃあ!!」
何と、二倉は蹴り足の方向に吹っ飛んだ。右脚で蹴って、次の瞬間には右に吹っ飛ばされたのだ。
捌いたというよりは、姫華がその怪力でもって左腕一本で二倉の身体ごと蹴りを薙ぎ払ったということだ。

「〜〜〜〜〜っ!!」
二倉が蹲り、声にならない悲鳴を上げている。よく見ると、右足の爪先が膝と御対面していた。
そう、右脚が脛で真っ二つに折れていたのだ。折れた骨が皮膚を突き破り、外に飛び出ている。

黒帯の大人の男二人が、白帯の少女にどちらもたった一撃でノックアウトされたのだ。
さすがに、これには残りの男たちも騒然としていた。

「もういい。お前ら、こいつらを病院に連れて行け」
ずっと静観していた逆輝がついに口を開いた。一村と二倉を残りの男たちが外に連れて行った。


「さて」
二人きりになった道場で対峙する姫華と逆輝。

「次は先生が相手?」
「・・・いや、もう充分だろう。確かに、話に聞いた通りだな」

「・・・どういうこと?」
「最初見た時はわからなかったぜ。細かい資料なんて、ましてや写真なんて見なかったからな」
やれやれだぜ、と逆輝はポリポリと頭を掻いた。

「・・・・・?」
「十二かそこらのガキが、まさかこんなデカい図体してるとは夢にも思わん」
全く状況を理解していない姫華を余所に、逆輝は話を続ける。

「須藤を殺ったのがガキだなんてのは、ただの与太話だと思ってたが、なかなかどうして」
「!?」
逆輝が口にした須藤の名に、さすがの姫華も反応した。

「お前を"見る"ためだけにわざわざ古巣に頭下げて戻って来たのによ。
 そしたらお前は組手はやらねーなんて抜かしやがる」
姫華はやっと合点がいった。
古巣とはいえ、元プロの逆輝がこんな場末の道場に現れた理由。初対面からいきなり姫華に絡んで来た意味。
そして今日、わざわざ姫華を残らせてまで、組手をやらせたその意義。

「でも、何でそんなことを?」
「それは直ぐにわかるぜ、ククク」
一番、肝心なところがわからない姫華を、逆輝は嘲笑うかのようにはぐらかした。

「まあ、近い内にまた会うことになるだろーさ」
そういって、逆輝は姫華をおいて道場を後にした。

「・・・? また次の稽古の時に会うのに・・・変なの」
姫華は狐につままれたかのように、しばらく呆然と立ち尽くしていた。

しかし、道場で再び、姫華が逆輝に会うことはなかった。
姫華が次の稽古に来た時には、既に逆輝は道場から姿を消していたのだ。


「しかし、まさかそんなことがあったとはな・・・」
「パパ、ごめんなさい・・・。なかなか言い出せなくて・・・」
黒田に道場でのことを話した姫華はシュンとしていた。心なしか、大きな身体が小さく見える。

黒田と姫華の前には相変わらず、大量の豪勢な食事が並ぶ。
しかし、いつもと違い、普段なら向かい合うはずの黒田と姫華が隣り合っている。

「ははは、まあそう責めてやりなさんな。お嬢ちゃんが可哀相ではないか」
黒田の正面に座った獅堂組長が豪快に笑う。

障子を挟んだ向こうには日本庭園が広がっている。絵に描いたような巨大な武家屋敷。
そう、ここは獅堂組長の邸宅だった。

獅堂組長に招かれての楽しいお食事会、では当然なかった。
カジノの今後についての報告は、黒田が既に済ませた。それに、それだけなら姫華が同席している意味は薄い。

「T組も痺れを切らした、ということでしょうか」
「お互い、このまま抗争が続けばジリ貧で共倒れになりかねんからな」
思案顔の大人二人を余所に、姫華は黙々と食事を続けていた。
話の内容が全く理解出来ないわけではないが、大人の話に子供が割って入るわけにもいかない。

この日の本題。

それは、近々行われる闘技場のメインイベントについて。
それだけなら別に何てことはないのだが、問題はそれをT組が提案して来たということ。
S組の代表者とT組の代表者による真剣勝負。
掛け金は、S組がカジノの利権全て。T組が、それに相当するだけのシマの利権全て。

負ければ、その組は死んだも同然。そう、つまりは代理戦争。
これ以上、無駄に組員の血を流すぐらいなら、一夜限りの勝負で白黒ハッキリさせようということだ。

時間は一ヶ月後。場所は勿論、カジノ地下闘技場。ルールは、レフリー無しの『何でもアリ』。
T組のファイターは当然、逆輝 丈。そして、その相手には姫華を指定して来た。

「まさか、あの逆輝がT組の子飼いになっていたとは思いませんでした」
条件的には五分に見える。しかし、カジノはS組、強いて言えば姫華のホームグラウンド。
表の実績では逆輝が遥かに上だが、裏の実績では姫華に分があるのは間違いない。

敢えて、敵の懐に飛び込んでまで、博打のような勝負を挑む理由。
その大きな要因は、S組の資金源にして最大の利権、カジノ。
T組も、以前は抗争を優位に働かせようと力尽くでカジノを潰しに掛かった。前オーナーの殺害がそれだ。
しかし、獅堂組長によればT組は大きな取引で失敗し、多額の負債を背負った。
つまり、今のT組はカジノを潰すのはでなく、利権もろとも奪いたいのだ。

もし仮に、T組子飼いの逆輝が姫華に勝てば。
絶対的な王者である姫華を倒した逆輝は晴れて、新たな闘技場の英雄ということになる。
恐らく、そこには裏の世界でもう一度、一旗上げようという逆輝の思惑もあるのだろう。

「その逆輝という男、お嬢ちゃんに勝つ自信があるのだろうな」
獅堂組長の言う通り、わざわざ逆輝は手間を掛けてまで姫華を偵察した。
それでいて尚、姫華に勝負を挑もうというのだ。何かしらかの勝算があるのは間違いないだろう。

「しかし、本当に良かったのか? 何も、お嬢ちゃんが儂らの組の命運を背負うことはないのだぞ?」
弱冠十代の姫華の肩に獅堂組長以下、組員全員の命運が圧し掛かることになる。

「姫華はやると言って聞かないので・・・。こうなったらもう、姫華は手が付けられません」
そういって黒田は苦笑した。

「パパも組長さんも心配要らないよ。私、あんな奴には絶対に負けない。
 道場じゃ我慢してたけど、あんなにムカツク奴は初めてだもん」
あんな蛇みたいな男は嫌い、とまで姫華は言い切った。


そして、ついに勝負当日。

カジノ地下闘技場、VIPルーム。
その更に特等席の三つの席に、三人の壮年の男が座っていた。

左端に獅堂組長。右端にT組の組長こと田所組長。そして、真ん中には葉巻を咥えた白髪混じりの銀髪の男。
そして、後方に控えるようにして立つ黒田と、数名のSP。

「いやはや。私をこんな一大イベントの立会人に呼んで貰えるとは光栄だよ、獅堂さん」
獅堂組長よりも見た目は歳下だが、獅堂組長と比べても貫禄負けしていないその佇まい。

後ろに控えている黒田も、最初に顔を見た時は身体が凍りつくのを感じた。
こんな裏の世界ではその名を呼ぶことすら憚られる、そのぐらいの超大物政治家。
もし、この場に居ることがマスコミにリークされれば、間違いなくこの場に居る全員の首が、文字通りの意味で飛ぶ。
この超大物政治家は、獅堂組長とは旧知の仲であり、立会人として獅堂組長が仲介を頼んでいたのだ。

この政治家にとっても思惑があったからこそ、立会人を引き受けた。
S組は、広域系とは違う、昔から地元でやって来た地域型の極道。
T組も似たようなもので、だからこそ、抗争の根が深いのだが、この勝負、
どちらかが勝っても抗争に終止符が打たれ、結果的にこの地域の極道としては規模が大きくなる。
この政治家は、その強力な地盤を押さえておきたかったのだ。
そう。どちらかが勝とうが、この政治家が地盤という大きな力を手にすることに変わりはないのだ。

確かにこれで、負けた方が勝った方に実力行使で襲い掛かるといったことは出来なくなった。
獅堂組長は勿論、そんなことはしないが、相手の田所組長がどう出るかは予想が付かない。
前オーナー殺害を見ても手段を選らばない節があるだけに、こういった抑止力は必要だろう。

「さぁ、一世一代の大勝負。どんな結末になるか、今から楽しみだよ」
その言葉が合図だといわんばかりに、眼下の大満員の会場が沸き始める。
闘技場では、両選手の入場が始まっていた。

先ずは姫華の入場。
最近仕立て直した、レオタードというよりは競泳水着に近い、身体にピッタリとフィットしたコスチューム。
歩くたびに全身の筋肉が躍動し、声援に応えようと腕を振るたびに力瘤がモリッと盛り上がる。

姫華は、普段から筋肉を誇示するような真似はしない。いや、する必要がないのだ。
素肌を曝け出した状態で、ただ歩く。それだけで常識の埒外の筋肉が、自ずからその存在を誇示する。
アスリートを遥かに凌駕するしなやかで柔軟な体躯。にも関わらず、ボディビルダーを遥かに凌駕する筋肉量。
柔と剛。速さと強さ。質と量。全てが兼ね備わった、黄金律の筋肉を持つ少女。

姫華が歩を進めるたびに観客から大歓声が上がる。地下闘技場の絶対王者に相応しい入場だった。

一方、反対のコーナー。
スポットライトがコーナーを照らし、現れた逆輝の姿を衆目に曝け出す。

どおおおおおお、というどよめきとも、ざわめきとも、いや、人の声ですらなく、まるで地響きのような声。
姫華への大歓声とは明らかに違う、異質な観客の声。

「何だ、あれは!?」
思わず、黒田は声を上げた。

ショートパンツにオープンフィンガーグローブ。足にはサポーター。
如何にもな、総合格闘家らしいスタンダードな出で立ち。だが、問題はそこではなかった。

逆輝の身体全体を覆うように盛り上がる、巨大な筋肉群。姫華と同じか、それ以上。
ただ、違うのは姫華のように自然に形成されたなめらかな筋肉ではなく、
如何にも人工的に造り上げたといわんばかりのゴツゴツとした岩のような筋肉だった。

「どういうことです!?」
黒田は慌てて田所を問い質す。

「何のことかね? 少なくとも"今のところ"、進行に何の問題も無いと思うが?」
田所は下卑た含み笑いを浮かべた。

「・・・くっ」
黒田は唇を噛んだ。

明らかにプロフィールとは違う逆輝の体型。間違いなく薬物に依るものだろう。
問題なのは闘技場のルールで薬物に関する取り決めが"存在しない"ということ。
武器の使用は禁じているが、それも場合によっては許可される。
レフリーを置かないまでもなく、元からしてルールは無いに等しい。

しかし、逆輝の身体はそういう事情を差し置いてもあまりにも異常だった。
仮に筋肉増強剤を使ったとして、一ヶ月であそこまで大きくなるものなのだろうか。

「オーナー、どうしたのかね? 君は常日頃から冷静な男だと聞いているが、この程度のことで取り乱すとは。
 あのぐらい、どうということはないだろう。むしろ、良い趣向じゃないか」
「・・・はい。取り乱してしまい、申し訳ありません」
立会人にそう言われては、黒田もそう返すしかなかった。

「姫華・・・」
呟く黒田が見下ろすVIPルームの遥か下で、姫華と逆輝はお互いを見合う位置にまで来ていた。


コロッセオをイメージした、円形の金網で覆われた闘技場。
ロープなどは当然、在るはずもなく、今回はレフリーも居ない。
両サイドの入り口が閉められれば、どちらかの"活動"が停止するまで出ることは出来ない。

土俵にあるような仕切りや、リングにあるようなコーナーも存在しない。
よって、試合開始のゴングが鳴るまで相手に触れることは出来ないが、位置取りは自由。

「おじさん、大きくなったね」
「オジサン・・・か。まあ、確かに俺ゃあ、もう先生じゃねーからな、ククク」
至近距離で見合う二人。身長は姫華の方が高いが、身体の大きさそのものは逆輝が上回っていた。

「この身体、ただ大きくなっただけだと思うかい?」
むん、と力を篭めると、逆輝の身体の筋肉が更に一回り大きくなる。

「さぁ? そんなこと、どうでも良いけど」
「ガハハ、強がってられるのも今の内だぜ。お前の弱点はもうわかってるからな」

「弱点?」
「怪力だけが取り得の、ただの力馬鹿ってことさ。そこに技術なんてものは無ぇ。
 確かに腕力だと"若干、俺の方が弱かった"かもしんねーが、俺には経験と技術がある」
こういう裏試合はともかくとして、表の実戦経験なら当然、逆輝の方が遥かに上。

「試合が組めなくなって仕事にあぶれ、T組に拾われてからは何度も死線や修羅場を潜って来た」
表の格闘家としての技術に裏の経験。現役時代には無かった刀傷は、その証だったのだ。

「そして、こうやってパワーも手に入れた。これで、俺がお前に劣る部分はもう何も無ぇ」
「そう?」
姫華は、逆輝の言っていることが理解出来ない、そんな表情をしている。

「お嬢ちゃんみたいな子供には、俺みたいな大人の言ってることは理解出来ねぇ・・・か。まあ、良い。
 とにかくよ、せいぜい・・・・・う〜ん、そうだな・・・。10分は持たせてくれよ。アッサリ決まったら盛り上がらねぇ」
「・・・10分? 10分持たせれば良いの?」

「まあ、そういうこった。旧王者のお嬢ちゃんは、新王者の俺、逆輝に今日ここでメッタメタにヤられる。
 半殺しや再起不能程度で済みゃ良いが、下手すりゃ殺しちまうかもしれねぇ。俺とお前の実力差じゃ、な。
 つまり、だ。最期だから少しくらい華を持たせてやるってーこった」
「言ってることは良くわかんないけど、とにかく10分持たせれば良いんでしょ?」

「ああ、せいぜい気張って、頑張ってくれよ」
「うん、何とか頑張ってみる」
姫華は思案顔をしていたが、努めて冷静にそう言った。

カァンッ!!

丁度そこで、小気味の良い甲高いゴングの音が会場に響き渡った。

「行くぜ!」
開始の合図と共に、逆輝が近かった間合いを更に詰める。

逆輝の激しいラッシュ。しかし、決めに行くようなラッシュではなかった。
上下左右斜めにコンビネーションで打ち分け、姫華の体力を削る、そんな試合巧者のラッシュ。
ワンツー・ロー、とパンチにキックを組み合わせた、お手本のようなラッシュ。
しかし、元々ヘビー級で、更に薬物で筋力をアップさせた逆輝のラッシュに姫華は防戦一方だった。
いや、顔面をガードするのみで、ボディから下の下半身は喰らいたい放題だった。

顔面ヒットは無いものの、数限りないクリーンヒットに観客は沸く。
絶対王者の姫華がもしかしたら、そんな期待もあるのかもしれない。
これがポイント制の試合だったならばもう、逆転はなかったかもしれない。


試合開始から5分が経過していた。
未だに、姫華の有効打はゼロ。いや、そもそも攻撃を放ってすらいない。

「おいおい、このまま手を出さずに終わってくれんなよ? 白けちまうだろ?」
とはいうものの、さすがに打ち疲れて来たのか、逆輝は肩で息をしていた。

「おじさん、もう疲れちゃったの? しゃべって息を整えようとしてるみたいだけど」
「っ・・・! このガキ!」
涼しい顔の姫華とは裏腹に、図星を刺された逆輝の顔が真っ赤になる。

「手を出せば良いの・・・? ・・・それなら出すけど、ちゃんとガードしてね?」
姫華は拳を軽く握ると、予備動作なしでそのまま左ジャブを放った。

シュパン! バコッ!

風を切る音と打撃音がほぼ同時に起こった。

「・・・うが!」
逆輝が顔面に諸にジャブを貰い、よろける。

「もう、ちゃんとガードしてって言ったのに・・・。もっとゆっくり行くね」

ヒュイン! バシッ!

「・・・ぐが!」
またしても、ガードする間もなく、逆輝は喰らってしまう。

ラッシュですらなく、連打ですらない、単なる左ジャブの繰り返し。
姫華自身は、逆輝にダメージを与えないよう、軽く撫でるように打っている。
現に、逆輝が再びガードするまで待ってから、次撃を放っている。
逆輝に比べれば技術のない、真正直なただの左ジャブ。
しかし、力を入れていないにも関わらず、姫華の左ジャブは逆輝がこれまで見たどのパンチよりも速かったのだ。


ざわ・・・ざわ・・・、と観客も次第にざわめき始めていた。姫華の試合展開が、今までとは明らかに違うのだ。

姫華の試合は本来、5分と相手が持たない。姫華の一撃一撃の威力が凄まじく、相手が耐えられないのだ。
しかし、逆輝は既に二発も姫華のパンチを貰っていて、怯んだとはいえダウンもしていない。
観客の半分は、相手の逆輝が実は強いのでは?という不安にも似た期待感を抱いていた。
しかし、後の残りの『半分』は・・・。


「くそ! そう何度もやられて堪るかよ!」
姫華が無造作に三発目のジャブを放った刹那、逆輝がその姫華の左腕に飛び付いた。
逆輝も百戦錬磨なのか、さすがに三度目には姫華のパンチスピードに合わせて来たのだ。

姫華の拳を両手で抱え込むようにして、姫華の腕に脚を巻き付ける飛び付き腕ひしぎ。
逆輝の現役時代を知る者なら、ヘビー級の空手家であるにも関わらず
軽快に相手に飛び付き、相手をマットに這わせてタップを取るこの逆輝の必殺技に心奮わせただろう。

だが、次の瞬間には先ほどまでとは違う、どよめきが会場を包み込んでいた。

腕を取って相手をマットに倒す。逆輝がそういう技を仕掛けたのは、逆輝を知らない者でも容易にわかる。
しかし、姫華は逆輝に左腕を捉えられた、そのままの体勢で"立っていた"。
姫華よりやや背が低いとはいえ、現役時代よりも筋肉量が増した逆輝の体重は推して知るべしだろう。
それを、ジャブを放った、つまりは虚を突かれた体勢のまま、姫華はリフトアップしているのだ。

「あ、いけない。そっか、まだ5分過ぎたとこなんだっけ」
姫華は突然、思い出したかのように、後ろに"倒れ込んだ"。

姫華が逆輝を持ち上げていたのは、時間にしてたった数秒。
姫華に詳しくない者であれば、たまたまバランスが取れて立っていただけ、そう考えるかもしれない。
しかし、先ほどの観客の残り『半分』、闘技場の常連で姫華を識る観客はもう気付き始めていた。

一方の逆輝は、あまりに無我夢中で事の"違和感"に気付くことはなかった。
むしろ、姫華からテイクダウンを取り、腕ひしぎの必勝パターンに入ったことに対する安堵で一杯だったのだ。

「へ! 今の俺の腕力で掛けた腕ひしぎは、金属バットですら圧し折れるんだ。
 だが、腕が折れても試合を止めるレフリーは居ない。覚悟するんだな」
逆輝は、総合に転向してからはグラウンド技も身に付け、積極的に使っていた。
空手がベースでありながらも寝技も使いこなす技術の高さは、確かに姫華には無いものだった。

「ねぇ、いくつか聞きたいことがあるんだけど」
「あぁん?」
逆輝は、姫華の腕を力一杯、ギリギリと締め上げる。にも関わらず、姫華は逆輝に話し掛けて来たのだ。

「はん! 話して気を逸らして技を抜けようたってそうはいかねぇぜ」
「技は抜かないから大丈夫だよ。・・・今はまだ」

「強がり言いやがって。まあ、打撃が得意のこの俺に奥の手の寝技を使わせたんだ。
 良いぜ、冥土の土産に答えてやる」
「道場の時とたいぶ見違えたけど、その身体はどうしたの?」
あれから二ヶ月と経っていない。
ウェイトトレーニングをやった、というだけでは逆輝の肉体の変貌は説明が付かない。

「弟が某製薬会社で開発部長をやっていてな。その伝手で、特別に『薬』を調合して貰ったのさ」
「薬」?

「まあ、言うなれば筋肉増強剤の強化版だな。速効性とその絶大な効果はピカイチだ。
 一般のステロイド同様に副作用はあるが、それを補って余りある一級品だぜ」
何せ、一ヶ月もあれば超人になれる薬なんだからな、と逆輝は付け加えた。

「・・・ふぅん。・・・そろそろ、かな。じゃあ、最後にもう一つだけ。
 前に道場で須藤って言ってたけど、もしかして須藤を唆したのって、おじさん?」
「須藤? ああ、そういや、お嬢ちゃんが殺ったんだったな。
 まあ、あいつも馬鹿だぜ。折角、チャンスをやったってのにミスって死んでりゃ世話ねぇや。
 しかも、お前みたいなガキに殺されたなんて・・・一体、どんなヘマ踏んだんだか・・・」
やっぱりそうなんだ、と小さく呟いた姫華に逆輝は気付いていなかった。

「さぁ、質問はもう良いだろ。さすがに、あんまりチンタラやってると客も怪しむ」
「うん、もうそろそろ10分経つね」
既に、グラウンドに移行してから1、2分が経過していた。

「そろそろ、その須藤の仇でも取ってやるか。まあ、ホントは別に須藤なんてどうでも良いんだけどな、ガハハハ」
「おじさんが質問に答えてくれたから私もスッキリした。その間、わざわざ力抜いてくれてたんだね」
姫華の言葉に、須藤の顔から厭らしい笑みが消えて行く。

「・・・・・・・・」
「どうしたの? もう、本気出して良いんだよ? 私もそろそろ本気出すから。
 "10分持たせた"んだし、もう力入れても良いよね?」
逆輝は答えず、無言で聞き入っている。その額には、ツラッと汗が滲み出ていた。

最初、逆輝はグラウンドに移行し、半ば勝利を確信した余裕から姫華に話し掛けた。
姫華が苦しみ喘ぐ声を聞きながら徐々に腕を折る。そうなるはずだった。
しかし、どれだけ両腕に力を入れようと、姫華の腕が可動域を超えて曲がることはなかった。
ヘビー級で、更に筋力アップした自分が、両腕で体重を掛けながら締め上げているのに。
姫華は苦しむどころか、普通に逆輝の会話に乗って来た。

『もう力入れても良いよね?』・・・それじゃあ、今までは?

『10分持たせた』・・・俺の攻撃に10分耐えたのではなく、反撃するのを10分我慢した? 何故・・・?

そんな、"違和感"ともいえる疑問が、逆輝の頭を支配する。

「く、くそおぉぉぉっ!!」
そんな疑問を払拭するように、逆輝が吼えた。姫華の腕を折ろうと、渾身の力で締め上げる。

「・・・うそ。おじさん、もしかして、今までも本気だったの・・・?」
さっきまでと変わらない、涼しい表情の姫華。それが、憐れみの表情に変わる。

「もう、仕方ないなぁ。ちゃんと、"掴まってて"ね?」
その言葉と同時に、姫華は両脚を軽く浮かせると、それは一瞬で起こった。

わあぁぁぁぁ、と観客が一斉に沸く。

何と、姫華は次の瞬間には立ち上がっていた。脚を浮かせた反動だけで、一瞬にして立ち上がってしまったのだ。
勿論、逆輝を左腕に巻き付けたままで、だ。


残りの『半分』の観客。姫華を良く知っているヘビーなファンは、もう最初の5分でわかってしまっていた。
確かに、逆輝は強い。恐らく、これまでの姫華の対戦者の中では最強の部類だろう。
しかし、姫華にとってみれば、そんなものは徒競走で1秒差を競うようなレベルでの話。
元々、F1カーの姫華からすれば、そんな低次元でのレベル差など、在って無きが如し。

逆輝が例え、全力で締め上げようと、姫華にとってみればそれはただ、抱き付いて掴まっただけに過ぎないのだ。

今まで、姫華がダウンしたことが無いのは、ヘビーなファンの間では周知の事実。
それを、この生死を賭けた大試合で喫した。それはつまり。

姫華が最初、逆輝に相対した時、既にその実力差がわかってしまっていた。
最初から本気を出せば、大試合に相応しくない、呆気ない結果に終わる。そんな確信。
だが、プロレスの試合でいきなり開始数秒で相手を締め落とそうとするレスラーが居ないように。
姫華は開始から10分間、ただただ試合を作ることに専念していたのだ。
そして、逆輝は姫華の『10分持たせた』という言葉の意味を履き違えていた。
10分間、逆輝の攻撃に耐えたという意味ではなく、
10分間、逆輝を倒してしまわないように耐えた、そういう意味だった。

「みんな〜、今から反撃するよ〜!」
姫華が観客に向かってそう宣言した。再び、観客が一斉に沸く。

「ねぇ、おじさん。いつまで掴まってるの?」
抱っこちゃん人形。昔、そんな名前の抱き付き人形があった。正しく、今の逆輝はその程度の存在でしかなかった。
それをぽいっとゴミでも捨てるかのように振り解く。

「・・・ぐあぁっ!」
逆輝は、ドカッと顔面から落とされた。

「ぐ、俺だって、ま、まだ本気出しちゃいねぇんだよ!」
「・・・ふぅん、そう? なら早くした方が良いよ? 今日ここで負けたら終わりなんだから」
観客へ向けていた笑顔から一点、姫華の表情が冷たいものへと変わる。

「須藤の話も聞いちゃったし、おじさんみたいな意気地なしが、生きてここを出られるなんて思わないでね?」
「何! この俺が意気地なし、だと・・・!?」

「だって、そうでしょ? 道場の時も手下だけ闘わせて自分では闘わなかったし・・・。
 かと思えば、そんな無駄な筋肉付けないと闘えないなんて、意気地なしじゃん」
「・・・なっ!?」
図星だった。

実際、道場の一件の時、姫華と一戦交えることも可能だった。しかし、逆輝はやらなかった。いや、やれなかった。
あの時の逆輝に芽生えた感情、それは今思えば確かに、恐怖と呼べるものだったかもしれない。
しかしもし、あの時に姫華と闘っていれば、今こうして負ければ後がない状況で対峙していなかったかもしれない。
実際に手合わせしていれば、病院送りで済んで、しかも姫華の"強過ぎる"強さを肌で感じ取れただろう。
だが、そうしなかったが為に、逆輝は姫華の強さをドーピングした程度で勝てると見誤ってしまったのだ。

「クスッ。何だったら、まだもう少しだけおじさんに付き合ってあげても良いよ。力比べでもやる?」
「こ、このぉっ!」
鼻で笑う姫華に、逆輝は顔を真っ赤にして憤る。

「ほら、この左腕。もしかすると、さっきのでどこか痛めちゃったかも☆」
そういって、手を開いた状態で逆輝に対して左腕を向ける。

「このクソガキ! 舐めるのもいい加減にしろっ!!」
姫華の左手に逆輝が右手を合わせる。しかし、姫華はまだ手を閉じない。

「おい、何のつもりだ? それに早く、もう片方の右手を・・・・・ぐぎゃぁっ!?」
逆輝が言い終わる前に、姫華が左手をやっと閉じた。格好的には、取り敢えず片手同士で力比べが成立した形だ。

「ん? ・・・ふふ、何か言った?」
「ぐああぁぁぁっ!!」
お互いが手を握り合った。ただ、それだけなのに逆輝が苦悶の表情で痛がっている。
姫華は相変わらずの涼しい顔をしている。
逆輝は空いた左手で姫華と握り合った右手を放そうとするが、万力のような姫華の手が開く様子はまるでなかった。

「おじさんなんて、片手でじゅーぶんだよ♪」
姫華はクイッと、左手を逆輝の方に倒した。
逆輝からすれば手首が手前に反り返る形になるため、それだけで地に膝を着いてしまう。

「おじさんは、これから実験台ね♪ 無駄に筋肉増やしただけあって頑丈そうだし」
「・・・実験、台?」

「こんな地下闘技場で闘ってる私が、何で空手を習ったかわかる? 当たったら手を放してあげる」
「・・・?いきなり、 何を言って・・・」

「な・ん・で・か・わ・か・る?」
「ぐがあぁぁぁっ!!」
姫華が、左手の締め付けを更に強くする。徐々に、逆輝のグローブに姫華の指が喰い込んで行く。

「・・・そ、そりゃあ、強くなるためじゃないのか?」
「ぶっぶー、ハ・ズ・レ♪」
ギュウ。ミシミシ。

「うが、がぁぁぁっ!!」
更に喰い込みが深くなる。

「答えはねー。実は、逆なの。私って力が強過ぎて手加減が下手だから、いつも試合が早く終わっちゃうの。
 日常生活でも困るから、手加減を覚えなさいって言われて」
「手加減・・・?」

「どう? 力加減、上手いでしょ? 今までだったら最初に握った時点でおじさんの手なんて握り潰してるよ」
「う・・・そ」
逆輝の顔面が蒼白になる。

「大丈夫、心配しないで。直ぐには殺さないから。骨という骨を砕いて、その自慢の筋肉を全部潰して。
 それで、おじさんが『殺してくれ』って言ったら、やっとそこで殺してあげる」
姫華は笑っていた。いや、口元は笑っているが、目は笑ってはいなかった。残酷なまでの冷笑。

「な、何で・・・」
「何でかって? おじさんが須藤を唆したせいでパパは死に掛けたんだよ? 理由はそれだけで充分だよ。
 おじさんがもし、良い人だったりしたら本当に手加減してあげても良かったけど・・・」

「お、俺ぁ、良いひ・・・」
「おじさんみたいなムカツク奴が、良い人なわけないしね」
メキメキメキッ、バキバキッ、ゴシャッ!!

「うっぎゃあぁぁぁっ!!!」
会場全部に轟くような逆輝の絶叫。

逆輝の右手、いや、右の手首から先がただの肉塊と化していた。右手を押さえ、蹲る。

「う、うぅ・・・ギ、ギブアッ・・・」
「レフリー居ないんだから、ギブアップしたって試合終わんないよ?」

「・・・・・・・・」
「立つ気が無いんなら、私が立たせてあげよっか?」
そういって姫華が蹲る逆輝の顔を覗き込もうとした、その瞬間。

ブバッ!!

「キャッ」
姫華に何か、液体のようなものが掛かる。

姫華の顔面は、赤い液体に塗れていた。逆輝の毒霧。
恐らく、蹲って姫華が覗き込むまでの間に口内を噛むか、舌を噛むかして、血を口の中に溜め込んでいたのだ。
反則スレスレ。いや、仮に反則だったとしても、逆輝は躊躇しなかっただろう。

さすがに突然、視界を塞がれた姫華は、その動きを止めてしまう。

「へへっ、『技術が無い』のが弱点っていうのは、こういうことだよ!」
いつの間にか後ろに回った逆輝が、その太い腕を姫華の首に回す。
破壊された右手は使わず、右腕を姫華の首に回し、左手で右手首を固定したチョークスリーパー。
いわゆる、バックチョーク。腕ひしぎと並んで、フィニッシュ率の高い決め技中の決め技。

観客が沸く。どよめきも混じっている。

実際、姫華がバックを取られたのはデビューから通して初めてのことだった。
対戦相手は皆、姫華を舐めて掛かるか、正面からぶつかって斃されるからだ。
本来なら逆輝もそうなるはずだった。斃しに掛かっていれば決まっていた勝負。
確かに、今まで姫華が隙を見せた勝負は幾らでもあった。
しかし、ここまで鮮やかに逆転の一手を打った相手は、逆輝をおいて他には居なかった。

「凄いね、おじさん。やれば出来るんだ」
「ハハ、この期に及んでまだ強がりか」
姫華の視界はまだ回復していない。

「他の人の対戦見てて、みんな何でこの技でギブアップするのかわからなかったんだけど、
 何となく理由がわかったかも」
「何となく・・・だと? 強がりもここまで来ると立派だな。頚動脈を締めてんだ、ものの数秒で落としてやる。
 その後は嬲り殺し、だ。お前が言った通り、レフリーが居ないんだ。ギブアップしても無駄だぜ?」

「確かに、これは"ちょっと"苦しいから、外すね」
「・・・え、おい、嘘・・・だろ!?」
そういって、スクッと姫華が立ち上がる。またしても、逆輝に技を掛けられたままで、だ。
そして、喉に喰い込んだ逆輝の右前腕部を無造作に両手で掴んだ。
姫華は、逆輝の前腕に対して、二つの動作を同時に行った。

両手で掴んだ逆輝の前腕部を、両手で握り潰しながら、左右に引っ張ったのだ。

グシャッ! バキバキッ、ブチッ、ブチッ!

さっき、逆輝の右手を握り潰したのは優しく手加減していた、とでも言わんばかりに、逆輝の前腕は一瞬で圧壊した。
そして、その潰した前腕を力任せに左右に引き裂いたのだ。

「*%$&#&$&#&#&$〜っ!!?」
最早、言葉になっていない、いやそれどころか声ですらない、逆輝の絶叫。

逆輝の前腕は、それまでと1.5倍ぐらいの長さになっていた。
いや、辛うじて皮と肉で繋がれてはいるものの、それはもう腕と呼べる代物ではないだろう。
姫華がバックチョークで苦しんでいる状態でなかったら、腕が寸断されていたのは間違いない。

「あ〜、また掛かっちゃった・・・。目が痛い〜」
首の辺りで逆輝の腕を引き裂いたため、姫華は再び顔面に逆輝の鮮血を浴びてしまった。

だが、右肘から先を完全に破壊された逆輝は、激痛にのた打ち回り、反撃どころではない。

「あれ? また何か技掛けて来ないの? チャンスだよ?」
姫華は、目を手でゴシゴシと擦っている。見えないため、逆輝の今の状態がわからないのだ。

「痛ぇ〜、痛ぇよ〜」
逆輝は、あまりの激痛に気絶することも出来ない。

「あー、やっと見えて来た。私に涙を流させたのは、おじさんが初めてだよ」
やっと視界が回復して来たのか、姫華はスタスタと後ろで倒れ込んでいる逆輝に歩み寄った。

「・・・や、やめ・・・」
「何か可哀相になって来たかも」
憐れみの目を向ける姫華に、縋り付くかのような表情の逆輝。

「・・・え? それじゃあ・・・」
自分より大きな外人ファイターを打ち負かして来た嘗ての格闘界のダークヒーローの姿は、もうそこには無かった。

「でも、ダ〜メ♪ パパと組長の将来が掛かってるし、それに、ここでヤメたらお客さんが怒っちゃうよ」
「ひ! ひいぃぃっ!?」

「じゃあ、選ばせてあげる。ひと思いに今すぐ死にたい? それとも・・・。
 全身の骨を一本一本圧し折られて、一生を病院のベッドで過ごすような状態になってでも生きたい?」
「・・・やめ、ゆ・・・ゆる・・・して」
最早、逆輝に威厳は無く、ただ涙声で命乞いをするだけ。

「・・・わかった。全身の骨を全部折って、グチャグチャにして殺してあげるね。
 それが、私やお客さんを白けさせた、せめてもの罪滅ぼしだよ」
姫華の脚に縋り付いて命乞いをする逆輝に、さすがの観客も白け始めていた。
もうこうなってしまっては、逆輝が死なない限りは収まらないだろう。
逆輝が如何に無残に殺されるか、観客の興味はそこに集約していた。
そして、闘技場の絶対王者たる姫華には、その空気がアリアリと感じ取れていたのだ。

「まだ右腕が壊れただけなんだから、本気で抵抗すれば何とかなるんじゃない?」
腰に手を当てて、へたり込んだ逆輝を姫華は見下ろす。

「・・・ぅ、うあおぉぉぉぁぁぁっ!!!」
逆輝の咆哮。

立ち上がり、一気に間合いを詰め、一心不乱に姫華に殴り掛かる。
左腕で殴り、右脚で蹴り、左足で蹴る。試合が始まった頃の、試合巧者のコンビネーションラッシュとは違う。
ただひたすら、渾身の力で殴り、必死の力で蹴る。技術も何も無い、力任せの攻撃。

「何だ。おじさんやっぱり、やれば出来るんだね」
顔への打撃をヘッドスリップでかわすのみで、ボディはノーガードで逆輝の打撃を喰らいながら。
そんな状態で、姫華はにこやかに笑って言った。

「くそぉっ! 何で! 何で倒れねぇんだよぉっ!!
 メリケンサック仕込んだグローブで殴ってんのに、何で痛がらねぇんだよ!?」
「メリケンサック・・・って何?」
姫華はメリケンサックそのものを知らないのか、きょとんとした顔をしている。
一方の逆輝は、はっ、と何かを思い付いたような顔をした。

「そう、そうだよ! メリケンサック! 俺ぁよ、反則してたんだよ。
 メリケンサックっていう鉄の輪っかみたいなのをこのグローブの中に仕込んでたんだ!
 だから、さ! 反則負けってことでこの試合は終わりなんだよ!」
「サイアク。っていうか、サイテー」
明らかに、姫華の表情が変わっていた。

「い、いや! 確かに、反則したのは悪かったよ! でもよ、そのぐらい、お嬢ちゃんが強いってことで・・・」
「もう、しゃべらなくて良いよ」
姫華は右手で逆輝の下顎辺りを掴むと、指先に力を篭める。

メキメキッ、バキッ!

逆輝の上顎と下顎の接合部分の骨が砕け、その拍子で顎が外れる。

「あが! あがが!!」
「メリケンサックとか良くわかんないけど、グローブに鉄を仕込んでようがそんなのはどうでも良いの。
 この期に及んでも覚悟を決めず、そんな反則がどうとかでこの試合が終わるとか思ってるのが許せない」
姫華は外れた逆輝の顎をそのまま、粉々に砕いた。まるで固い煎餅でも砕くように、丁寧に、丁寧に砕いた。

「*%$&##&$〜っ!!」
下顎がグチャグチャに潰れ、ホラー映画のゾンビのような顔になった逆輝の甲高い絶叫。
逆輝が言葉を発することはもう金輪際、無いだろう。

さすがに覚悟を決めたのか、涙目になりながら、激痛を堪えながら、逆輝は必死に姫華を殴る。蹴る。
しかし突如、糸が切れた操り人形のように、崩れ落ちた。

「あれ? もう、終わり? うそ、これからなのに・・・」
まだやり足りないといった感じで、姫華はダウンした逆輝に駆け寄る。
うつ伏せに倒れた逆輝を、姫華は仰向けに引っくり返す。しかし、やはり反応が無い。

「あれ? こういう時ってどうするんだっけ・・・。人工呼吸、は絶対嫌だし・・・とすると、心臓マッサージ?」
仰向けに寝たまま反応が無い逆輝の胸に、姫華が両手を置く。

「後は、これで胸を押せば良いんだよね・・・確か」
心臓マッサージは未経験なのか、さすがの姫華もやや緊張していた。

「せーの、それっ!」

ドンッ!! バキバキバキッ!!

骨の砕ける破砕音と共に、逆輝の開きっ放しの口から、まるで噴水のように血が吹き上がった。

「・・・あ」
姫華のこの日、初めての全力。
渾身の力が篭った姫華の両手が、逆輝の胸部に手首辺りまで減り込み、大きなクレーターを形成していた。
あまりにも、呆気ない幕切れ。結局、"これ"が『トドメ』になった。

実はダウンした段階では、逆輝は虫の息ながらもまだ死んではいなかった。
右前腕部と下顎を破壊された激痛による体力の消耗、それに伴う出血性ショック。
それらが合わさって昏睡状態に陥りながらも、まだ何とか図太く命を繋いでいた。
当然、そのまま放置していれば何れは死んでいただろう。
しかし、もしここで姫華が勝ち名乗りを上げていれば、或いは試合後の治療で助かったかもしれない。
だが姫華の、慈悲でも情けでもない、単純な試合の延長を望んだが故の延命措置が、却って仇になった。

心臓マッサージは基本、全力でやるように教わる。その点では、姫華は間違ってはいない。
しかし姫華の全力は、心臓をマッサージする前に肋骨を粉々に砕き、心臓と肺を圧し潰した。

後に、逆輝を看た解剖医によれば、肋骨、心臓、肺は全くその原型を留めていなかったという。
心臓と肺は、まるで圧迫された風船のように、粉微塵に弾け飛んでしまったのだ。

フィニッシュホールドは、『心臓マッサージ』。

兎にも角にも、前代未聞の決着だった。
相手を倒す手加減を覚えた姫華だったが、次に覚えるべきは延命措置の手加減の仕方だったということだろう。


試合後。

「一時はどうなるかと思ったが、とにかく無事で良かった」
控え室に顔を見せた黒田が、そう姫華を労った。

「へへー♪ あのくらい、楽勝だよっ」
当の姫華は、疲れた様子もなく、黒田に笑顔でVサインを決めて見せた。

結局、S組とT組の勝負は逆輝の死を以って、S組の勝利ということで決着した。
これは余談ではあるが、T組の田所組長は、逆輝のあまりの凄惨な死に方と
自分の行く末がショックだったのか、試合が終わった直後に心臓発作で倒れ、そのまま病院で死亡した。
後から黒田が聞いた話では、田所組長は心臓を患っていて、それも決着を急いだ要因だろうということだった。

「しかし、逆輝は筋肉増強剤なんてものを勝算に考えていたのか・・・。
 わざわざ偵察してまで出した秘策がそんなものだったとは、少し拍子抜けだな」
「うーん。でも、今まで闘った人たちの中では一番強かったと思うよ。力も、技も」
姫華が珍しく相手を褒めたことに黒田は驚いた。もう二度と、対戦することは適わないのだが。

「後は・・・メリケンサック・・・っていうの? 付けてたらしいけど、よくわかんなかった」
「メリケンサック!? 逆輝は、そんなものを付けてたのか?」
黒田もそれは初耳だった。
残念ながら、試合前のチェックを掻い潜る方法は幾らでもあるし、敗者の"遺品"をチェックしたりはしない。

「よくわかんなかったって・・・姫華。お前、確か逆輝の右手をグローブごと握り潰してたよな・・・?」
しかし、よくよく考えてみれば、姫華にとって鉄など飴細工に等しいことに黒田は思い至り、納得した。

「・・・まあ、良い。取り敢えず、姫華。試合中の心臓マッサージは今度、絶対に禁止だ。
 そもそも、倒した対戦相手に心臓マッサージして、それがトドメだなんて前代未聞だ」
「・・・はーい」
姫華もそれは思うところがあったのか、素直に返事した。

「後、もし俺がプールや海で溺れても、禁止な」
「えー!? 何で〜!?」

「あのな。確かに、お前になら殺されても良いとは言ったが、心臓マッサージで殺されるのだけは御免だ」
「大丈夫! パパの時はちゃんと優しくやるし、それに・・・」

「それに・・・?」
「・・・うぅん、何でもない♪」
姫華は何かを言おうとしたは、急に顔を紅潮させて黙り込んでしまった。

「何はともあれ、これで獅堂組長の周りも、このカジノのことも落ち着くだろう。
 それも全部、姫華。お前のお陰だ。ありがとう」
「・・・! うん!!」
姫華は、どんな対戦相手のパンチや蹴りよりも、黒田の言葉の方が良くも悪くもダメージになる。

それは、自分にとって凄く嬉しいことなんだよ、と心の中で呟いた。


つづく





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